見出し画像

言葉のプロか、プロの言葉か。

世の中には「言葉のプロ」と言われる職業はいくつかあるけど、「なにか別のプロ」として極まっている人は、結局「言葉もプロ並みに面白い」ということはよくあること。六本木の21_21で開催中の「虫展」に行ってきて、大いに虫好きの欲求は満たされまくったのですが、館内企画の「養老先生の言葉」が、冒頭の言葉とプロの関係性について考えさせられるものばかりだったのです。

特にうなったものだけここに。「何かのプロは、言葉のプロでもあることが多い」のはなんでか考えると、ひとつは「極まった場所から見える風景がそもそも面白いので、そこからただ見えることを書けばそれは面白いものになる」という仮説。本人は特に「言葉を紡ぎだす」という技巧を凝らそうとしてないかもしれない。言葉がすごい以前に、人生がすごい。だから、ただ「ここまできたらこういう風に自然と思えた」ことを書いてるだけ説。もうひとつは「極まる過程で人は、物事と自分とを内省しまくって言語化をせざるを得ない」という仮説。言葉にするということは、理解し、分析可能にし、再現性を生み出す行為ともいえる。運だけでは極まれない。コンスタントに遠くまで歩み続けるために、人は自分の考えや行いの意味するところを必然的に言葉にするのかもしれない。最後が、その両方なんだろうという仮説。

言葉そのもので飯を食っていく職業以外の人でも、世の中に言葉を手軽に、不特定多数の人に向けて発信できるような世の中になったからこそ、もしかしたら「もっとうまく言葉にして人に伝えたい」という願望って、半分は、その過程において遠くに行ける重要な努力で、もう半分は「そんなことより人生が楽しければ勝手に言葉も楽しくなるよ」って話なのかもね。

ちなみに、虫展は、言葉のいらない面白さでした。そういう世界もこの世にはある。

サポートありがとうございます! 今後の記事への要望や「こんなの書いて!」などあればコメント欄で教えていただけると幸いです!