人の意見を聞ける人格

ひとりで企画をずっとずっと考えているうちにだんだんと、これは果たして面白いのだろうか?通用するのだろうか?と不安になって、人に意見を聞いてみたくなることはよくある。でももっとよくあるのは、自分からその人に意見を求めておいてその聞いた相手が、経緯を知らないことをいいことに好き勝手意見をしてくることに腹が立つことじゃないだろうか。

「その可能性はもう考慮に入れたよ」
「それができないからこうしてるってわかんないかなあ」
「それはここにもう書いてあるじゃん」

とかとか。そういうのって語気とか、かぶせ気味の反論とかで、確実に相手に伝わって、「おお…そういう感じね…じゃあまあ、いいんじゃないこれで…」というように、なんも言えないじゃんという読後感と自分の狭量さだけを相手に残して、話しをとじてしまうわけです。自戒 of 自戒。

伝説のクリエーターと聞いて僕は真っ先に任天堂の宮本茂さんのことを思い浮かべるのですが、彼の一番の友であり理解者であった、岩田聡さんが彼を評して書いた文章があって。この「自分が手塩にかけたものを、そんな心も知らない他人に見せることについて」の話です。

宮本さんはなんにも知らない人をつかまえてきて、ポンとコントローラー渡すんですよ。で、「さあ、やってみ」って言ってね、なんにも言わないで後ろから見てるんですよ。わたしは、それを「宮本さんの肩越しの視線」と呼んでたんですけど。(中略) つまり、ゲームをつくった人は、ゲームを買ってくれるひとりひとりのお客さんに対して、「このようにしてつくりました。こうたのしんでください」とは、説明に行けないんですね。当然ですけど。だから、しかたないので、すべてを、ものに託すわけです。ところが、ものというのは、そういうことを伝えるうえで、きわめて不完全にできている。だから、伝わらないんですね。制作者が、想像もしないところで、予想外の戸惑いを感じたりする。宮本さんは「肩越しの視線」でそれを探しているわけですね。なにも知らない人がそれを遊ぶのを見て、「あ、ここわからないのか」とか、「あそこに仕込んだ仕掛けには、とうとう気づかずに先に行ってしまったか」とか、「先に、これやってくれないと、あとで困るのに」というようなことが、後ろから見ていると、山ほどあることがわかるんです。お客さんが、前提知識がない状態で、どんな反応をするかがわかるんですね。だから、宮本さんは、自分がどんなに実績のあるゲームデザイナーであろうと、「お客さんがわからなかったものは自分が間違ってる」というところから入るんですよ。 (「岩田さん」より抜粋。文中太字は吉田加筆)

この視線というか、心構えは、経験値とか能力とか以前に、人間ができてないとなかなか、わかってはいても持てるものじゃないと思うんです。自分はこれが面白いと信じている!っていう視点と、それを遠くに突き放して「でもそんなことはお客さんからすればどうでもいい、知ったこっちゃないことだ」という視点を、行ったり来たりできる能力と、人格と。

「人に意見を聞く」という行為は、聞きすぎてかえってわけわからなくなったり、変に腹を立てて自分自身を余計意固地にしてしまったり、とかく、難しい行為なんだと思うんです。だから、突き抜けてる人はここについて、自分なりの方法論を確立している人が多いように感じる。「一切聞くな」という人、「信頼できる5人を持て」という人、「聞けるだけたくさんの人に聞け」という人、「答えを聞くからダメであって、その人の欲求を聞けばいい」という人。どれも一長一短だから、自分がどういう方法論で行くのかは自分で確立するしかないように思うのだけど、なぜそうなのかってそれはたぶん、自分の人格とかかわってくることだからなのだろうなあと。

自分はついつい、冷静じゃなくなったり、自分から聞いといてムカついてしまったりと何しろここについては未熟極まりない態度がまだまだ残っているので、修行が足りないのだと思うのです。仕事的にも人間的にも。そういう気持ちに、なる本でした。読んでみてほしいです。これ以外にも、とてもいい言葉がたくさん。


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