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50. バッドエンドが後引く映画3選

年間100本映画を観ることを自らに課して10年目のわたくしが、映画初心者のために「なりたい気持ちで映画セレクト」する企画、THREE FOR YOU。記念すべき50回目のお題は、そんな記念感を全無視してダークなご要望を投げてきた後輩のAさんから、映画好きならではなこんなお題。

バッドエンドフェチです。なんでか自分でもよくわからないんですが、観終わった後に呆然としたくて映画を選ぶ時があります。今もそうです。ガーーーンって言いたい。なので、私の心に引っかき傷を残すような、バッドエンドを教えてください。

一個前は「安らぎ」がテーマだったというのに、今回はこんなですかい。ただそれもまた、安寧から衝撃まで振れ幅を楽しめる映画らしさ。そんなバッドエンドを、質問にあった「なんでが自分ではわからない」というそのインサイトの正体のことも考えながら、3本選んでみました。

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アメリカン・ビューティー

1999年公開
監督:サム・メンデス
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アメリカン

広告業界に勤務する主人公と不動産売却を営む妻、高校生の娘の3人の平凡な家族が、娘の親友に一目惚れしてしまったことから内部崩壊を起こしていくお話。アメリカン・ビューティーとはバラの品種の名前で、大変美しく華やかな一方で、根腐れを起こしやすいとか。外から見た華やかさと、中に広がる巨大な空洞が、バーナム家を覆い隠しているのだけど、それでもまだ形として成り立っていたうちはマシだったわけで、主人公がその虚無感に気づいて破れかぶれになったことで、その空洞は外と繋がってしまった。登場人物全員が、外見とか評判とか体裁ばっかり気にしていて、目の前にいる人間と心を開いて向き合えない。気づいた時には時すでに遅し、悲惨なバッドエンドでございます。この映画で味わえる「バッドエンドの後味」は、”人生なんて、勘違いの塊なのかもしれないという空恐ろしさ”ということでしょうか。バッドエンドの実態としては、まさに勘違いなんですが、よくよく考えるとこの物語の登場人物はそれ以前からずっと、「幸せ」についての勘違いを起こしている。なんなら積極的に。そのせいで、いつもどこかずっと満たされない日々を送っていたわけだけど、その勘違いに気づいた主人公が、あーあっていう最後なのもまた皮肉。幸せについて考えちゃう一本です。ケビン・スペイシー、いい演技なんですけど、スキャンダルであーあって感じになってしまい残念。


たかが世界の終わり

2016年公開
監督:グザヴィエ・ドラン
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世界の終わり

死期迫る次男が、12年前に飛び出した実家にその事実を告げに帰省するお話。人間のキャパシティについての物語。大きな世界で大きなつながりをはぐくみ、その大きさで自分の死を静かに受け止め、過去の愛憎を越えてそれを告げに帰ろうとする主人公の想いや存在を、小さな世界で日々同じ話を繰り返し続けてきた家族は受け止められない。不自然にめかしこんだり、慣れない料理を豪勢に振る舞い、いらだち、つっかかり、過剰な愛情表現をする。その不可解な行動は全て、10年ぶりの次男という存在を受け止められずにドタバタするキャパの少なさゆえ。本当に告げないといけないことに至らないほどに、彼らの日常はいっぱいいっぱいで、その事実がひたすら残酷。もしここで告げた場合、彼らはどうなってしまっていたんだろうか。受け止められない想いはないモノと一緒で、そう、たかが世界の終わりだし、大したことじゃない、と。えぐい話です。でも演技も演出も抜群。グザヴィエ監督は、えげつない眼でまっすぐ人間を見ている人なんだと思うがゆえに、業の深い作品でありました。苦手な人は苦手だと思います。なんせ2時間ほぼずっと口論の映画なので。この映画で味わえる「バッドエンドの後味」は、”人間の絶望はほとんど、時間と距離から来る”ということでしょうか。精神科医の名越康文さんの受け売り言葉ですが、絶対に取り戻せないという時間の経過と、果てしなく遠く手が届かないと感じる距離。この映画には両方、詰まってます。今、目の前に存在して、手が届きそう、話せばわかってもらえそうと感じてしまうだけにより残酷に。

ドッグヴィル

2003年公開
監督 : ラース・フォン・トリアー
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ドッグヴィルタイトル


ある廃坑の町に、謎の女が逃亡してきてから起こる、人間の愚かさのお話。人に寛大であることの傲慢さについて描いた物語。「大目に見てあげる」ということは、ひるがえって言えば「大目に見てあげないと対等にならない」という、人を下に見る行為であるかもしれないという、最後の親子の車中の会話がエグイ。おかしいことをおかしいといい、間違っていることを間違っているといえる関係こそ対等。皮肉なことに、劇中そんな関係性で会話ができているのは、最後の車中だけ。象徴的なのは連呼される「ほんとうはこんなことしたくはないんだ」というセリフ。社会がみんなして暴力に化ける瞬間をみるような、やっぱりラース・フォン・トリアーは変態だっていう、恐ろしい映画。この映画で味わえる「バッドエンドの後味」は、”誰かのためを思ってやることも、そこに自分の本心がなければ最悪の結果を招く”ということでしょうか。本音と建前が乖離するとロクなことにならない。ドッグヴィルの住人は皆その乖離が凄まじく、それでいて当人たちがそれに気づいていない。そのために常にただよく薄気味悪さ。その両方が暴走して股裂きになるのも、なんとなく自業自得に思えてしまう、ザ・胸糞悪い映画です。

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こんな3本。選びながら、「なぜ人はバッドエンドに惹かれてしまうのか」を考えてました。有り体に言えばそれは「裏切られたいから」なんだろう。ショックを受けたい。予定調和をぶっ壊して欲しい。感情を揺さぶりたい。それがプラスだろうとマイナスだろうと、振れ幅を感じたい。そういう時に人は、やばい映画を求めるのかもしれない。翻って考えれば、日々退屈して、同じ繰り返しを感じてしまっていたら、ここで進めた3本のような劇薬映画は、いいか悪いかはさておき、この世界の見え方を少し変えてくれるとは思います。予想通りのハッピーエンドは成り立つけど、予想通りのバッドエンドってなかなか成り立たないもの。だから、バッドエンドの方がストーリーとして凝っていて、それゆえに忘れられない作品が多いのかもしれないですね。どれも引きずる可能性が高いので、万全のタイミングでぜひ、よかったらみてくださいませ。

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