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本のマツコとテレビのマツコ

自分で勝手に今年に入ってから課していた「noteを毎週、水曜日曜でUP」を、先週水曜に落としてしまった。無念すぎる。勝手に決めてただけだけど。でも、人の「その人らしさ」なんて、周りから降ってくるものをこなすことよりも、「勝手に自分に課してまでやろうと思っていること」からこそ、組みあがっていくんだと思うのです。いや、守れてないんだけどね。落としたんだけどね。

マツコ・デラックスのエッセイを読んだことってありますか。個人的にはテレビで見る彼女と文章の彼女は、同じ人間の中にある結構違う側面をそれぞれ見せられている感覚があって、内容もさることながらそれが面白い。人にある複数の側面をそれぞれ見られてもそれが面白いと感じられるのは、おそらく彼女が「自分にはどんな側面があって」「それぞれの側面の向こう側にどんな社会がどんな期待をもって存在していて」「それぞれの側面と社会がどんな関係なのか」を、相当に解像度高くわかっているからだと思うんです。文中でご自身も、「自分はマイノリティで変わりものだから、世の中がよく見える」みたいな趣旨なことを書いていたけど、そうやって自分を相対化して解像度をあげていくことが、生存戦略と直結している人生だったんだろうと、僭越ながら思いながら読んで。「俺、変り者だからさー」と口ではいう割にどこが変わってるのか全然わかんねーみたいな中二病な人々は、爪の垢を煎じて飲んだほうがいいと思う次第です。

文章のマツコとテレビのマツコの違いは、僕が感じるに、自分が主体か、メディアが主体かの違いなんだろうなと。「自分がまずありき。それを好く人はそちらからいらっしゃい」なのか、「世間がまずありき。その期待に芸者として答え続けるわ」なのか。どちらもプロの矜持を感じるのだけど、僕は主権を持って発信するほうがその人が見えて面白いと思う。結局、例えば企画書とかもたいていの場合、上司がいじる前の企画書の方がおもろいと思うしね。何事も、「思っている本人が、思っている通りに話す」のが、面白いし好きです。「わかりにくい」「伝わらない」という問題はもちろんあろうかと思うのですが、それは面白さとは別の変数だと思うしね。上司はじめ、周りができることってそっちを上げることだけだと思っといたほうがいいとつくづく。

大事なのは、仕事でもSNSでもプライベートでも、どこでもいいから「思ったことを思った通りに出せる場を持つ」ってことなのかもしれないです。

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