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[第2号] 編集後記 ※本誌未掲載

第2号の編集後記は紙幅の都合で誌面からは割愛し、mahoraのHPで公開しました。ここに全文を転載します

本日(注・2019年12月11日。現在は別の写真に更新)からトップページの写真が変わりました。第2号で紙漉思考室・前田崇治さんを取材したときの、写真家・野口優子さんの撮影によるものです。端切れや印刷ミスなどで余剰物となった手漉きの紙を、漉き返し(現代で言う再生紙)としてよみがえらせていく風景は、取材から半年以上が経ったいまでも、鮮明に思い出すことができます。特に、もとの紙に印刷された文字が、消滅することなく、紙を成す植物の繊維と共存しながら、新たな紙に留まって、存在しているありようです。

植物の繊維も、人間がつくった文字の痕跡も、それぞれがそれぞれの形を残したまま、ひとつに溶け合っている。それぞれがそれぞれでありながら、ひとつの全体を成している。自他の区別のない、美しい風景。新たな生が芽生える、原始の風景。――誌面で私はそう書きました。第2号に実際に綴じた漉き返しの紙を見れば、自然も人間の営為も、優越も大小も善悪もなく、ひとつにつながっている様が確かめられるでしょう。

外的な世界である「大宇宙」と、自らのうちにある「小宇宙」は、前者が後者を内包しながらも、互いに作用し、ある全体のもとに統一する、という世界観は、16世紀西洋の神秘主義哲学にすでに見られるそうですが、それから約200年後、そうした世界観に強く影響された詩人がドイツに現れます。第2号の巻頭で引用した詩の作者である、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテです。

ゲーテは数々の詩、小説、戯曲を世に残した一方で、色彩、形態学、地質学などの自然科学の研究に没頭しています。時代と社会が近代化していくなか、彼は人間と対立する存在として自然を捉える西欧の科学的合理主義とは異なり、畏敬しながら人間と調和する存在として自然を捉え、互いが混ざりあいながら「全体」を成す、と考えました。その思想の根本に、近代的理性よりも、人間に本来備わる感情に重きを置いたことも、重要な点でしょう。本誌で引用した詩、『神と心情と世界』の一節を、もう一度引きましょう。

無限なものの中へ踏み込みたいなら
唯だ有限なものの中を全ゆる方向へ歩け。

全的なものによつて鼓舞されたいなら、
最微なものの中にも全體を見なければならぬ。
(『ゲーテ詩集(三)』所収・片山敏彦=訳/岩波文庫)

ここで、詩中にある「有限なもののなかをあらゆる方向に歩く」ことと、「無限なもののなかをひとつの方向に歩く」こと、そして「微かなもののなかに全体を見る」ことと、「大きなもののなかに微かなものを見る」ことが、まったく入れ替え可能であり、同じ意味であることがわかるでしょうか。つまりここでは、一と他/多の区別はあっても、一方がもう一方に作用しながら、どちらにも大小や優劣はなく、ましてやどちらかを選ぶということもないのです。

そもそも、なぜAかBのどちらかを選ばなければならないのでしょうか。現代は「リスク」という概念のもと、極端に選択肢を狭めていきます。ある目的に純化する手立てとしては有効なのかもしれませんが、それは他/多を捨て一のみを生きることであり、ともすれば「一こそが全体であり、正義である」という思いすら芽生えてしまうのではないでしょうか。けれども、「どっちもあるけど、どっちも選ばない」と考えたらどうでしょう。このような脱二元論的なあり方が、とても健康的に映るのは、果たして私だけでしょうか。

先日行われた第2号刊行記念イベントの第3回目で、星の坊主さまのこじょうゆうやさんが、こんな話をしてくれました。いまの社会は次のような仕組みにある。つまり、AとBがあったとして、Aを強く言えば言うほど、シーソーのように、反対側にあるBがどんどん頭をもたげてくる。ならば、AとBがあるが、それはそれとして、置いておく。これからはそういう時代になるのではないか、と。

社会という構造(システム)に用意された選択肢を選ぶよりも、自らの心からの内なる声と、自分の外なる言動とを一致させること。それぞれがそうすることで、それぞれの個性が輝き、それぞれの色彩が対立することなく、全体に合わさって、「とうめい」な光になる――。今号で星の坊主さまが寄せてくれた「とうめいな未来」という創作には、そのような風景が記されていました。

頁を繰れば、そんな美しい風景がちりばめられていることに気づくでしょう。例えば、捕鯨に対して善悪を追及するのではなく、太古から連綿と続く人間と鯨の多層的な物語と向き合い、語りなおすという、美術家・是恒さくらさんの試み。あるいは、調和と恐れという二面的な美しさを併せ持つ自然に魅了され、自然の偶然性に預けながら自らの創作を成すという、写真家スティーブン・ギルさんのプロセス。そして、人と鷹が一体となった瞬間を「空一面に広がる夕焼けのような一瞬の完璧さ」と捉え、「すべてに意思が存在しているかのように感じた」という、鷹匠・大塚紀子さんの境地。

ゲーテの言うように、これらの風景は自然との接点を通して至れること、そして知性よりも感情によって導かれることは、集落の自然や住民に愛を注ぎ、生きる喜びを服という形で一心に表現するiaiの居相大輝さんや、日々の暮らしのなかで自然とその生命の実りである食べものに、瑞々しい感性をもって向き合う料理家・後藤しおりさんの言葉にも、明らかです。そしていまこの時代が、このような大きな転換期を迎えているだろうことは、これまでの言葉のあり方から脱皮しようともがいているような、青葉市子さんの文章にありありと刻まれています。もう一度ゲーテを引きましょう。

自然に対しては、つねに
一を見ること全のごとくあれよ。
内にあるものなく、外にあるものなし。
内にあるものは、すなわち外にあるものである。
されば逡巡することなく
ひらかれし聖き秘密をとらえよ。

真実の仮象をたのしめよ。はた
厳粛の遊戯をたのしめよ。
すべて生けるものは一にあらず、
そはつねに多である。

(『ゲーテ詩集(四)』所収『神と世界』より「エピレーマ」・竹山道雄=訳/岩波文庫)

楽しむことで秘密に至る。そこに理由はないのでしょう。あっても言葉では説明できないのでしょう。自然という多なる他者の隣に私という一があり、だから私は心に感じたのだ、という感情を根拠にすること。自分の心に嘘をつかず、誰かや何かを理由にしてあきらめることをせず、内なる感情を丁寧に丁寧になぞっていくこと。その折重なりが、美しい全体を導くのでしょう。

今号も素晴らしい出会いと再会に恵まれました。そのひとつひとつを一冊の本に綴じることができたのは、このうえない喜びとなりました。刊行後、私は東京から長野に居を移しました。水と空気がやわらかく澄み、無数の星々が煌めく、美しい土地です。今後はこの場所から『mahora』を編んでいきます。第3号は2020年、初夏の終わりに、お届けしようと思います。

*採録にあたって一部旧漢字をあらためました

『mahora』編集・発行人
岡澤浩太郎/八燿堂

多くのご支援ありがとうございます。木々や星々は今日も豊かさを祝福しています。喜びや健やかさにあふれる日々をお過ごしください。