[mahora 第3号] 編集後記
趣味のクライミングの話をします。
クライミングはもともと登山技術を磨く練習法として始まり、現在では氷の絶壁をバールのような道具で突き刺しながら登るものや、命綱をつけて数十メートルの岩壁を登るもの、ロープやヘルメットを付けずに高くても五メー
トルほどの岩を登るものなど、さまざまなスタイルを包括しています。
自然の岩を登るわけですから、自然の脅威を直に受けることになります。地震や河川の氾濫などで岩が傾いたり削れたりし、登るコースが消滅したり、難易度が変わったりすることもしばしばです。ただしクライミング界には、
こうした自然の作用を否定せずに受け止める文化があります。なぜなら、「自然界に存在する岩を人間が登らせてもらっている」のであり、だから「自然のままに尊重すべきである」と考えるからです。
そのためこんな議論もあります。ならば、命綱を引っかけるためのボルトを岩に打ち込むのは許されるのか? 滑り止めのチョークやシューズのゴムが岩に付着するのは? ドリルで削るなどして人為的に岩を加工するのは論
外ですが、道具の使用の線引きに関しては、人間の安全面を取るか、環境保護的な観点を優先させるかで、クライミング界でも実はいまだに議論が交わされています。
この議論の一方を極論すると、クライミング自体が自然を汚していることになり、いってみれば人間なんていないほうが自然には良い、ということになります。しかし人間が自然との接点を持つことは許されないのでしょうか。
もちろん違うでしょう。クライミングの醍醐味は岩の一番上まで登り終えたときの達成感よりも、岩登りを通して自然に受け入れられるという一体感を味わうことにあると私は思います。問題は、人間と自然とを分ける考え方にあるのではないでしょうか。
人間と自然とを二分するデカルト的二元論は、自然を人間の資源とみなし、科学と合理主義を発展させ、物理主義と資本主義の加速を促し、社会も文化も人間も分断し、自己利益の追求と暴力的な闘争が支配する世のなかを生み、一時の快楽を与える影で人間も自然も疲弊させていきました。これは「人間の最悪の思い上がり」の結果だと、インド出身の活動家、サティシュ・クマールはいいます。
今号の冒頭に引用した彼の言葉はこう続きます。「結局のところ地球と私たち自身との間に区別はない」。つまり、人間は土から生まれ、土に還る。人間は自然の一部であり、それ以上でもないし、分離もしていない。自分と、自分以外のすべての生命に畏敬の念を抱き、補い合いながら生きるために、ともに結ばれるための関係の糸を取り戻す。あらゆるものは全体(ホリスティック)であり、「一」である。人間の生とはその原始の風景を内に抱いた営みであり、人為とはそのための手段である。そのとき人々の目にするのが、愛であり、調和であり、そして美である。
だから人は美と接するとき、全体を回復するのでしょう。矢野智徳さんのいう「機能の調和」も、河瀨直美さんのいう「大仏様のような映画」も、個々が個々でありながら空間も時間も超えた全体を回復するための扉であり、美
そのものが目的なのではない。この扉はそれぞれの日々の暮らしのなかで、あるいは芸術家の精妙な手つきを通して、あるときは自然や隣人との接点を重ねながら、または閃きによって、そして神話や伝統や物語を媒介にして、開かれるのでしょう。今号に記されたさまざまな美という扉は、そのほんの一例です。
今号も美しい出会いと再会に恵まれました。否定や分断よりも、喜びや祝福の種となるように、今号も編みました。編集後記を書く間、窓外ではさまざまな鳥たちの声が層をなして森を満たしています。誌面を通してこの空気が
少しでも伝われば幸いです。またお会いしましょう。
『mahora』編集・発行人
岡澤浩太郎/八燿堂
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