母の闘病記録 パニック障害と嘔吐症の合併症を患った15年

母が“パニック障害”という診断をされたのは、発作が起きるようになって4年後のことでした。診断が出るまでの期間、周囲の人からの白い目、田舎だからこそのひそひそ話、根も葉もない噂話…そんな毎日を送っていました。

両親の仲が良くはないという事実に気づいたのは、私が5~6歳の時でした。口喧嘩は日常茶飯事、時には物が飛び交う、父も母もお互いの悪口を外部に言いまくる。。。そんな環境のせいか、5歳の私はどこか冷めていて、常に人の顔色を覗いながら本心ではない言葉を発することが当たり前でした。妹が2人生まれても関係性が良くなることはなく、日々悪化していく毎日。

自営業だった父の仕事の業績が少しづつ右肩下がりになり始め、環境は更に暗雲が立ち込め始めました。その理由もあったとは思いますが、自宅にいることが最大のストレスとなってしまっていた母は、仕事に出るようになりました。地元の集落に唯一合ったコンビニでのパートと、小料理屋でのバイト。ほぼ1日中働いているような環境を自ら選択していきました。それほどに自宅に帰ることが苦痛だったんだと思います。当時まだ30代の母、、周りから見たら、元気でいつも明るい“恵子ちゃん”に見えていたんだろうけど、その目に見えないストレスという病魔は、確実に母の身体を蝕んでいきました。

そんな母の唯一の心のよりどころは母の母、私から見た祖母でした。まだ子供だったため、あまりそのことに気づいてあげられませんでしたが、金銭的にも、心情的にもずっと頼っていたということを後々聞きました。

そしてもう一人、母には“”親友”だと思っていた人物がいました。母の病気を発症させる引き金となった女。その女の裏切り行為により、金銭も、人からの信頼も失うことになり、数年間、責め続けられる母がいました。何も悪いことをしていないのに、まるで犯人扱い…。田舎の狭い視野とか、狭い世界の環境から抜けたいと思ったのはこの時だったかもしれません。

このころから母に謎の不調が出始めました。熱もないのに吐き気が止まらない。立っていることがしんどい。あぶら汗が止まらない。。“まあ姉ちゃん、お母さんエラいって言っとる”という小さな妹の声で目覚める夜が増え、朝は母のうめき声がしたり、今みたいに精神的な障害の情報がない時代で、しかも山奥の田舎という環境。精神疾患であるなんて、だれも思わない環境の中で、母は毎日過ごしていました。

そんな状況に追い打ちをかけたのが、祖母の死。ある日の夜、母の兄嫁から電話があり“ばあちゃん頭痛いっていうもんで病院行ってくるね!”少し心がザワっとしましたが、病院に行けば安心だろうという勝手な判断で焦りもせず呑気でした。

プルルル!電話が鳴り、母の表情が変わり、すぐに病院へ車を走らせたのを覚えています。

病院に到着するなり病室に案内され、唖然としました。人工呼吸器を付けられて、意識のないまま横たわった祖母が目の前に。母の従妹が看護部長ということもあり、素早い処置を施してもらったようですが、くも膜下出血でした。2~3日がヤマだということを告げられ、親族一同の心がどこにあるか分からないような状態。

翌日の夕方、祖母がこの世から旅立ちました。

母の泣き崩れる姿、こんなお母さん見たことない、、という母を始めてみた瞬間でした。


そこから四十九日法要までの期間、母の記憶があまり無いというのも不思議な真実です。

母のメンタルは、とっくに限界を超えていて、機能的にはエラーマークしか表示されない状態。精神が崩壊した人間の症状が加速していきました。

身長167cmの母。1日24時間ですが、12時間くらいトイレで吐き続ける。何も食べられないのに、ずっと嘔吐しているから胃液しか出なくなり、ゾンビみたいな状態の母。こんなに苦しむ状態の人間を見る日が来るなんて1ミリも思っていませんでした。

だけど、どんな検査をしても数値に異常が出ない。そして発作症状を目の前で見ていたのが私たち娘3人だけという状況から、母の現状を分かってくれる人が誰もいません。

お母さん、調子悪いんやって?いい病院見つかるといいね~

ありがたいんだろうけど、そう思えないほど軽い心配の言葉を沢山言われ、私もどんどん心を閉ざしました。誰もわかってくれない…。みんな他人事…。今思えば、現状を見たことない人に理解を求めるのは無理だということもわかりますが、中学生の私には到底理解できなくて、妹たち以外はみんな敵でした。

色んな病院の検査を受け、色んな病院をたらい回しにされ

でも原因が分からないから精神安定剤を処方する医者ばかりで

薬漬けにされていきました。精神的な改善が何一つないから症状が良くなるはずもなく、薬による物理的な負担ばかりが積み重なり

心身ともに廃人と化している母。


そんな出口が見えない日々の中で、一筋の希望が見えたのは発症から4年目のことでした。母の病気を解明しようという意思で、初めて向き合ってくれた下地先生。何度も何度も検査して、数値に異常がないからと終わらせられた結果を掘り起こして、どこかにヒントが隠れていないかと研究を重ねて下さいました。


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