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上京花日

飯田橋駅のホームは大きく曲がっている。
昭和のころ軌条のバンクは今よりもきつくて、停車中の電車は傾いてしまい乗り降りにも気を遣うほどだった。

東口を出て外堀通りを渡る。神田川に蓋をする首都高速を見上げながら目白通りを進むと、池袋線の高架は左へと大きくカーブしていく。

その名も大曲(おおまがり)から、白鳥橋(しらとりばし)で神田川を渡り、最初の交差点安藤坂を左へ折れると、緩いのぼり坂になる。
そのまま3分ほど歩いた先に、取引先のデザイン事務所はあった。片道20分は、けっこう狡いペースだったかもしれない。
グーグルマップの無い時代、神田川を谷間に、街の起伏を感じながら歩く道草もまた楽しかった。
寒い暑いや雨風の日もあった。そんな日々さえ楽しい思い出として上書きされている。

“Eアート” はマンションの一戸を仕事場にしていた。和室二間の2DKは襖や戸板が外され、暗幕で閉ざされた風呂場は現像のための暗室に改造されていた。

蛇口から糸を引く水道水。暗幕の内を射す赤色灯。湿気を帯びた現像定着液の酢酸臭。縦横にすべる文字盤。シャッターレバーと歯送りのラチェットギアノイズ。
そんな視覚、臭覚、聴覚がそろって、写真植字の現場は記憶のヒダに沁みついている。

ときにはインスタントコーヒーをご馳走になりながら現像を待った。急くあまり半乾きの写植を受け取ってしまうと、事務所に帰り着くころには印画紙がカールしていて、ペーパーセメントが塗りづらくなるという流れは繁忙期アルアルだった。
 
海外向けに欧文カタログも編集していた。文字原稿はIBMタイプの打ち出しをそのまま版下台紙に貼り込んでいた。写植印画紙と比べて紙質が粗悪で、切り貼りが難儀なうえに黄ばみも早かった。

タイプ屋は市ケ谷寄りに早稲田通りへ出て、神楽坂の坂上近くまで上ったところにある平屋の木造家屋だった。
黒塀の先で右に折れるまでの道々、当時は小料理屋も多く、西陽が強くなるころには三味の音が聞こえていた。

店先の打ち水。軒先の盛り塩。そんな風情は、まだ知らぬ大人の世界で、なんとも素敵に映った。
半年前まで鹿児島の漁師町で育ち、都会を夢見ていた青年にとって、それは正夢ともいえる日々だった。

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