Pアイランド顛末記#34
★三日月の夜
茸堂の地下で、蛙じいさんが例の茸をのもうとしている。夕べ、大東京通りの上空で出会った、二郎と名乗る「意識」が残した言葉が気になって、少し緊張していた。小瓶のなかの最後の茸をのみこみ、ソファに横になった。
目と目の間に次第にエネルギーが集中してきて、体が気体になるような感覚が襲う。蛙じいさんの魂はふわりとうきあがった。地下室の天井からしわだらけの自分の肉体を見おろし、じいさんは少し悲しくなった。
大東京通りの上空には、湿気を含んだ空気が渦をまいている。やがて自由の女神がぼおっと浮き上がって来る。台座からのアップライトに照らされ、女神はうつろな眼で空を見つめていた。彼女の鼻は潮風にさらされて、もうほとんど残っていない。蛙じいさんは、女神がささげ持つ擦り切れた旗のさきで漂っていた。空には霞んだ三日月が浮かんで、糸の様な黒い雲がその前を横切っていく。いつものように沢山の「意識」たちがじいさんの眼の前を横切っていったが、今日はそのひとつひとつがじいさんをおびえさせた。
ふと気が付くとじいさんの頭の上に例の光る球体が浮かんでいた。二郎だ。
「やあ、蛙じいさん、来たね。」
「要件だけ、手短に済ませてくれんかね。」
「ふうん、年寄りはせっかちで困る。」
二郎はけたけたと笑った。
「ねえ、じいさん、歌手のイオちゃん、あんたの孫娘なんだろ?おれ、ファンでさ、サインもらってよ。」
「イオのことなど、関係ない。」
二郎は、面白そうにまたけたけたと笑った。
「気むずかしい年寄りは、若いもんに嫌われるよ。」
「早く本題にはいらんか。茸の効き目が切れる。」
「おっと、それもそうだ。」
厚い雲が三日月をおおい、深い闇が訪れた。
「じいさん、あんた殺されるよ。」
蛙じいさんは、半ば予期していたその言葉に聞きいった。
「フェイバリットステーションのやつらさ。あいつら、べつにラジオやテレビでメシ食っているわけじゃない。なにせ、もとは北千住のヤクザだからね。どんな手を使うかわかったもんじゃないよ。そろそろ、ドラッグの新製品が必要な時期だからね。極楽茸は絶好の標的だよ。」
たしかに例の茸が完成してから、何度かマルコムからの接触があった。じいさんは、この茸のことは自分だけの秘密にしようと思っていた。自分が死ぬ前に、茸の胞子はすべて焼き捨てるつもりだった。生涯をかけたささやかな冒険…。マルコムからの何度かの電話。何度かの嫌がらせ。
「胞子を提供しなければ、たいへんに「やばい」ことになるますよ。」
それがフェイバリットステーションのボス、マルコムからのメッセージだった。
「別にただってわけじゃないんですよ。ビジネスですからね。適正な価格を提示させていただくつもりです。」
マルコムは、テレビ電話のなかでダリ髭をしごきながら、そう強調した。
二郎は言った。
「じいさん、奴は本気だよ。力づくでやるつもりだよ。だから、いまのうちに、荷物をまとめて逃げるなりなんなり考えたら?」
蛙じいさんは口が聞けなかった。
「イオちゃん悲しむの、俺つらいからさ。」
そう言い終わると、光る球体は次第にちいさくなり、きえた。
夜明け前、蛙じいさんの魂は地下室に帰ってきた。ソファにじいさんの肉体が横たわっている。裸電球の弱々しい光で見るせいだろうか、じいさんの顔はやけに青ざめている。じいさんの魂は、いつものように自分の肉体のなかにもどろうとした。しかし、その寸前、眼に飛び込んできたものは、ぱっくりと切り裂かれた喉。そして、いまだにながれ続けるどす黒い血。
じいさんの肉体に、いつものような吸引力はなかった。もうすでに腐りはじめた肉のかたまりになっている。じいさんの魂は行き場を失った。じいさんは、とほうにくれ、地下室をふらふらと飛び回った。
見ると、地下室は荒されている。栽培中の茸は床に放り出され、本棚も引出しもひっくり返されている。じいさんは旋回をくりかえした。
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