見出し画像

「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」②石畑由紀子『エゾシカ/ジビエ評

「人間」を受け止める 
 北山あさひ

 
 二〇二三年二月刊行。著者の石畑由紀子は「未来」所属で、北海道帯広市在住の歌人である。

  ゆきこ、ゆきがじきふりますよ空の底から声がする帯広の声
  白樺の幹横たわる 昨晩の雷雨あなたの声、でしたか
  肉体は地図であるから眉尻を撫でては辿る祖父への道を
  けんこうなからだとはどんなものかしら夜の樹々たち倣って眠る

 
 生まれ育った土地や雷に倒れた白樺の木(白樺は帯広の市木である)、自らの顔に刻まれている歴史、そして大病を経た身体。しつこくと言っていい程に、石畑はさまざまなものに語りかけ、声を聴こうとする。そこに自然や歴史と交感するだけではない「あちら側」へ行ってしまいそうな怖さと危うさがあり、石畑短歌の大きな魅力になっている、ということを私は栞に書いたのだが、それをふまえ、ここでは石畑の相聞歌について紹介したい。 

  恋愛は人をつかってするあそび 洗面台に渦みぎまわり
  手榴弾ふたつ並んでゆれながら今木漏れ日のアーチをくぐる
  関節の多い理由をたしかめるように添わせてもっとちかくに
  やわらかく倒されながら思いだす雪虫の雄に口のないこと


 「恋愛は人をつかってするあそび」。すごい解釈だし、人を納得させる力がある。ひらがな書きの「あそび」に冷たさと残酷さが甘く匂う。そんな「あそび」のさなかにある二人の心臓は「手榴弾」。並んで揺れている手榴弾にとって「木漏れ日」は決して安全なものではない。ささやかな熱がいつ引火するともわからない、スリリングな一首だ。身体の触れ合うセクシャルな場面も「関節の多い理由をたしかめるように」とまるで動物や昆虫を思わせ官能的。次の歌ではもっと直接的に相手を雪虫の「雄」に重ね合わせ、生殖の仄暗い部分を見せてくる。このような残酷さや冷たさは、北海道という厳しい土地が石畑の中に呼び込んでいるのに違いなく、冬の空気のように張り詰めた独自の相聞歌を立ち上げている。
 注目すべきは〈コミュニケーションの歌集〉とも言えるような本書の中で、木やエゾリスや川や祖先たちよりもずっと遠くてわかり合えない存在が相聞の相手――人間(特に「男」)であるという点だ。

  うしなったものを数えて博物館のようだあなたは雪を食みつつ
  この姓を離したくない きみもまた見覚えのある顔で黙った
  穴の夜に花をひき抜く 最後まで生まれなかった共通言語(リングワ・フランカ)
  ありがとう そこではなくてでもそこをずっと撫でてくれてありがとう

 わかり合えずにすれ違ってしまうこと。わかろうともせずに離れていってしまうこと。わかり合えなくても撫で続けてくれた手があったこと。こんなふうに寂しくなるのは人間だけで、その「人間」を、石畑はまさに全身全霊で受け止めているのだ。

  みぞおちにちいさな家を建てたことふたりで建てたこと 夜が明ける

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー