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時評2023年3月号

いくつですか?

 昨年末、緊急搬送された。夕方からの強い腹痛が一向に収まらず、薬を飲んでも横になっても痛い。夜中いよいよ耐えられなくなった。運ばれた時は歩行も困難な程で、思い当たるのは日常と化した過度の飲酒の他にない。これが膵炎だろうかと思えば、炎症に「炎」の字が入るのも容易に首肯できるほど痛い。
 検査の結果はアニサキス性小腸閉塞だった。アニサキスが胃を越えて、日々の不摂生でむくんだ小膓に入り、そこで炎症反応が起きたらしい。ちなみにあの激痛は咬み傷の痛みではなく、異物に対するアレルギー反応だそうだ。小膓では摘出もできないので、痛み止めを点滴し、そのまま二日間入院した。
 入院中、医師や看護師から幾度も聞かれたのが「今の痛みは十段階で言うといくつですか」という問いだった。なるほど、痛みは極私的なもので個人の判断でしかないが、数値化はかろうじて可能だ。医療現場では普通のことかもしれないが、この問いは妙に新鮮で、また納得もした。
 昆虫学者のジャスティン・シュミットのエッセー『蜂と蟻に刺されてみた』を病床で注文したのは、痛みが四くらいに落ち着いた頃だっただろうか。シュミットは虫に刺された際の痛みを0から4の五段階でスケール化したシュミット指数を提唱する。ちなみにヒアリは1、スズメバチでも2。痛みをめぐる先のエッセーは、彼の無鉄砲な好奇心も楽しいが、痛みの描写が何よりも魅力である。「古い教会のガス灯に火をつけようとした瞬間、目の前で爆発したよう」とか「長居するディナーの客のように、いつまでも延々と続く痛み」とか、シュミットが「痛みの詩人」と呼ばれるのもよくわかる。
 十年ほど昔、歌壇の流行語に「切実さ」があった。最近とんと聞かないのは流行り廃り以前に、そもそも短歌においては当たり前だったからだろう。世代も何も関係ない。実際この結社誌を見ても、日常のひりひりした感覚の歌が少なくないことはすぐにわかる。
 わたしたちはそこにあるものを肌で触れ、時に痛みとして知覚する。肉体の表面を肌と呼ぶように、魂だって肌を持つ。触覚とは現実との接点であり、痛みとはそれゆえ現実の知覚でもある。とすれば短歌とは、痛みという発見を清潔に保つ器なのかもしれない。時に甘く、時に鋭いその痛みが、損なわれることなく光る。
 もちろん痛みは快いものではない。だがシュミットの語る痛みの喩は、不思議に明るく甘美である。痛みを媒質としてより深い知覚を求める心、それがこの昆虫学者にかような表現を促すのだろう。つまりシュミットにとって、痛みはそのまま客体である。
 対してわたしたち歌人の痛みはどうだろうか。甘美であっても、明るいだろうか。痛みと同化してはいないか。同化して、自閉的に自身を憐れんではいないか。あなたの歌のその痛み、十段階で言うといくつですか?
(滝本賢太郎)