時評2023年1月号
水銀と水飴
九月のはじめ、下丸子へ越して来た。多摩川に近い小さな町で、揚げ物を食わせる店がいやに多い。引っ越しの翌日、最寄りの図書館を訪ねた。特に目当ての本もなく棚を眺めていたとき、道場親信『下丸子文化集団とその時代』という本を見つけた。
この町は五十年代、労働者運動の中心地だったという。ここで言う運動とは、レッドパージに対する抵抗闘争に限らず、労働者たちが詩を書き、同人誌としてまとめる文化闘争も含んでいる。安部公房も当初関わっていたという、彼ら下丸子文化集団の活動から生まれた『詩集下丸子』は、各地に労働詩の同人誌を作らせるほどに、当時のサークル詩運動のモデル的存在となってゆく。
彼らの詩は前述の書にも収められている。いわゆるプロレタリア詩の典型とも言えるが、やはりよい。歌ではなく詩、殆ど口語散文に近い詩でしか表せない激情の解放が、ここには明らかに刻印されているからだろう。これらの詩が、激情は激情として描く、その素朴さに甘んじてよいのかという「へたくそ詩論争」を巻き起こすのは、しかし当然の流れとも言える。短歌史を見てもさほど変わらない。だが「へたくそ」な詩がなぜ人に響き、なぜ人はそれを書くのかを問うことに、言語表現の新たな可能性を探った詩人たちもいたことは、多少は異なるのかもしれない。
この本を読んでいた頃、中井久夫の『私の日本語雑記』で日本語詩は四拍子という論を知った。石井宏が『西洋音楽から見たニッポン』で詳述しているようだが、例えば「なつ/くさ/や/□/つわ/もの/ども/が/ゆめ/の/あと/□」のように、五音は休止を持ち、七音は休止を持たない四拍子であり、そのため俳句は四×三、短歌は四×五だと言う。この韻律に対して休止を持たぬ散文を、石井は「ぐにゃぐにゃ水飴語」と呼ぶ。
へたくそ詩と水飴語はどこかで合流する。それが見られるのは案外、韻律の新しい力を持つ歌ではないか。そう考えていた折り、韻律に挑戦する新刊歌集の噂を聞いた。都心に出たついでに、本屋で探してみた。一つは新人の、一つは有名歌人の作である。しばらく頁をめくって、二つともそっと戻した。へたな水飴もあるのだなと思った。
ツルハシ担いでのつそりはいつたのでびつくらしたかお神さんおどおどすることあねえおれはガス屋だ
坪野哲久の第一歌集『九月一日』より引いた。へたな水飴と言えばこちらもそう見えるが、牛の涎のようにだらだら流れず、急に凝固してこちらを睨む。読むうちに水飴から水銀へ変わる。この得体の知れぬ、くらくらする力にわたしは惹かれる。
ここ五年ほど、歌集はほぼ頂いたものしか読んでいない。総合誌も見ない。時評を担当するには倫理的に問題があると思った。だが時評は、別に昨今の流行に便乗する埋め草原稿でなくともよいだろう。歌にあまり触れないわたしが、同じ時代、暮らしの中で思うことを、歌の庭園で咲かせるつもりで書くのでもよいかもしれない。そう思いながら半年間、これを読んでいるあなたに電話口で話すような気持ちで書いてゆきます。
(滝本賢太郎)