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年間テーマ「ユーモア」⑥

   

ふふっと笑う先に


           富田睦子

「ユーモア」とは、苦境の中にあってそれをはね返すような余裕、もしくは俯瞰の態度なのだと思う。感染症の流行や戦争などここしばらくの陰鬱な状況の中で「ふふっ」と笑ってしまう作品を取り上げて味わうということは、それ自体がユーモアの態度なのだろう。

  海、きみと わたしが泣くたび困ってね砂を握ればぎょうざのかたち
              工藤玲音『水中で口笛』

 『水中で口笛』は、ひさしぶりに短歌は青春の詩型であると思い出した一冊であった。
「きみ」と「わたし」は海に行っている。砂浜に座り、なにが起こったのか思い出したのか、「わたし」は泣き始めてしまった。「きみ」はそれを見て困っている。困らせてしまったことに気づきながら「わたし」は一方で「いつまでもこうして自分の涙に動揺してほしい」と思う。ここから仲が深まっていっても、今のように自分を新鮮な存在と感じてほしい。そんな初々しくも傲慢な発想が生き生きと捉えられている。これぞ青春という場面である。
 泣きながら、固まるまで砂を握りしめ、手を緩めるとそこには「ぎょうざ」があった。「ぎょうざ」。確かににぎった砂の形は似ているかもしれない。だが、餃子は庶民的な食べ物で、すくなくともロマンチックではない。こんなシリアスな、抒情的な場面なのに、餃子。ふっとおどけた視線が入り込み、頬を緩ませる。
 同じ歌集には

  就活用タイトスカート履くときの太巻き寿司の心強さよ

 という歌もある。履き慣れないスーツを纏ったとき、腿が濃い色の布で巻かれている。海苔巻きみたいだ、ずいぶん大きい、太巻き寿司だ。という発想の展開が手に取るように見えてくる。中身の詰まった、しっかり作られた太巻き寿司、私は大丈夫だ、と緊張の中でわれを取り戻す様子が伝わって頼もしい。これも俯瞰の視線が生きた一首だ。見せ方をよく心得た作者だと思う。

  「ワイシャツのアイロンがけをしてほしい」夫に言はれた妻の衝撃               
         片岡絢『カノープス燃ゆ』
  実母から「アイロンくらいかけてあげたら」と言はれた娘の衝撃
  義両親から「アイロンをかけてやってほしい」と言はれた嫁の衝撃
  「ワイシャツのアイロンがけはしません」と妻に言はれた夫の衝撃


 歌の形を同じくすることで四コマ漫画のような流れを作っている作品。共働きの夫婦の間の認識の齟齬という、描き方によっては愚痴っぽくにも深刻にもなる題材を「ネタ化」することで相対化している。今これを読んでいる人の中にはおそらく「実母」「義両親(※義父母のことをネットスラングなどでこう言う)」側の認識を持つ人もいるかもしれない。だが、「アイロンくらい」ならばなおのこと夫が自分でやればいいわけで、今はノーアイロンシャツも衣類スチーマーもあればクリーニングに出したって一枚200円~300円。いい大人が、しかも結婚までしようと思った男がそんな工夫も努力もせず自分の衣類ひとつ整えられない人間だったということは、作者にとっては「衝撃」以外の何物でもない。
 この一連では、その「衝撃」を繰り返し用い、また自分を「妻」「娘」「嫁」と関係で表現することでその時代錯誤をコメディに仕立てている。現実は困惑と怒りと失望で大混乱だっただろうが、おかげで読者は無邪気に笑い、共感することができる。

  芋ほりに子が持ち帰る大ぶりで泥だらけの芋 こまりますよね
             山木礼子『太陽の横』
  「プチトマトのへた取らないでほしかつた」泣くほどに恨まれて母とは

   
 こちらは、ユーモアいっぱいに自己戯画化しているようにみせかけて意外に深刻な歌である。本音を言うためにユーモアの鎧が必要だったとも言えるだろう。
 秋になると、幼稚園・保育園では園児たちを芋ほりに連れて行ってくれる。たいてい、町内の農家のご厚意で、蔓まで切って掘りやすくしてくれている畑で楽しく泥遊びしてくるのである。子どもたちは「捨ててもいい服」を着て集合し、獲物を抱えて髪の中まで泥でじゃりじゃりさせて帰宅する。取れたての芋はさほどおいしくないが、子どもの掘ってきたものを捨てることはできない。
「こまりますよね」とオーバーアクションでため息をつくのは、悪い母親にならないためのギリギリの自己戯画化なのだろう。
 プチトマトのへたにしても同様で、「母とは」と大袈裟に嘆くことで戯画化しようとしているが、がんばってがんばって、それでも「泣くほどに恨まれる」不条理は、真実「泣きたいのはこっちだ」という思いだろう。軽く歌うことでようやく歌える思いである。

  老友よりショコラ届けば不気味なり頭脳しぼれどお返しもショコラ
          馬場あき子『あさげゆふげ』
  簡潔に保つをんなの友情のあかしのショコラ行つたり来たり
  山かくす春のかすみの恨めしとバレンタインのチョコにかきそふ


 さて、少し辛くなってきたので続いてはほのぼのとして朗らかな楽しい歌を読みたい。
 馬場の一首目は「不気味なり」が直球すぎてまず面白い。長い付き合いの友から思いがけずチョコレートが届いた。バレンタインデーの時期とはいえ、いや、だからこそなぜこの人から、愛の告白でもなかろうに、と意図を計りかねている。馬場がそうはいいつつ楽しんでいることは明らかで、「不気味」という率直な表現は気の置けなさを感じさせるし、「頭脳しぼ」ってお返しを考えていることも嬉しさから気の利いたお返しをしたかったからだろう。結局チョコレートをもらって、お返しもチョコレート。ふたりの間を行き来するこれはチョコレートそのものに価値があるのではなく「友情のあかし」なのだと納得している。「友情のあかし」という表現はすこし時代がかっていて、たとえば吉屋信子などを思い出す。少女時代に還ったかのような華やぎの時間だったのだろう。
 3首目がまたいい。そのチョコレートにつけた一筆が「山かくす春のかすみの恨めし」という雅やかな文句だったという。これは「なかなかお会いできず寂しいこと」という意味だろう。同じものを芸なく返すようでいて一矢報いており、楽しい。

  娘よりほかに子はなしと思ふときふざけちらして男の子寄り来る
            花山多佳子『空合』


 ここからは一首ずつ「ふふっとなった歌」を紹介していきたい。
 真っ先に思い出したのがこの一首だった。「ふざけちらして」は、一昔前のお笑い芸人などが「禿げ散らかして」などという時の「散らかす」だろう。反抗期だろうか、親子喧嘩だろうか。息子なんてもういないものとする、私には娘しかいない、と未だ怒りが鎮まらないときに、それを知ってか知らずか当の息子は奇妙な動きをしてふざけながら近づいてきた。作者がまだ怒っているのは「息子」ではなく「男の子」と言っていることから読み取れる。だが、きっとこのあと結局最後には許してしまうんだろうな、という予想ができてほのぼのとする。

  断捨離を思えど捨てられぬものばかり一期(いちご)の男はいびきをかいて     久々湊盈子『麻裳よし』

 「一期の男」という表現におおっと思って覚えていた一首。「一生に一度の男」「一生を共にする男」とは熱烈だ。しかし「捨てられないモノと一緒でなんとなくそばにいるうちに愛着がわいちゃって、結局これが私の唯一の人なのよねえ、やれやれ」という歌意なのだから、惚気もほどよく、絶妙の軽やかさである。

  サイババより長生きであるわが母は午後のひととき書道に励む
                   栗木京子『水仙の章』

「サイババ」という人名が意外で覚えていた一首。サイババは南インドのスピリチュアルリーダーで、後には慈善事業などでも尊敬を集めたが、90年代に20代だった私はモジャモジャの髪でよく分からない怪しげな言動をする変なインド人、と認識している。サイババは1926(大正15)年生まれ、栗木の親の世代にあたる。おそらく同年生まれなのではないだろうか。亡くなったのが2011年だから、この歌はサイババの死の報を聞いたときに作られたのだろう。母と同じ年の有名人が亡くなったことで母の死が遠からぬことを予感している。寂しい感慨なのだが、「サイババ」の名との距離感がそれを救っている。

  ひと粒ずつみっちりと生る葡萄ありひそかにマツコ・デラックスと呼ぶ
         遠藤由季『北緯43度』


 こちらは「マツコ・デラックス」が効いている。遠藤は1973年の早生まれだから、マツコ・デラックスとは同い年である。同い年と言ったって多くのベビーブーマーの中の一人なのだが、やはりなんとなく親しみがあるのだろう。互いに成熟の時、弾けそうな葡萄にひそかにその名を呼びかけるところが楽しい。
 「ユーモア」の歌と言ってもいろいろな歌がある。だがここまで15首を選歌してきて、思いがけず気づいたことがあった。
 私にとってユーモアとは、人間関係の中にあるようなのだった。

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