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年間テーマ評論〈幻想とリアリズム〉⑥柳宣宏「玉城徹の人物詠」

玉城徹の人物詠 
  柳 宣宏


幻想とは、この世にはありえないことをいう。では、現実にはないものが、あるとはどういうことなのか。

そこで、世界は言語によって分節化される、ということから考えてみる。馬が走っている、これは現実に目の当たりにする。だが、馬が空を飛ぶ、これを見ることはない。けれども、馬が空を飛ぶ、という事実はなくとも、日本語としては意味を成す。では、事実ではないことを言葉で言えるのはどうしてか。それは、人間が言葉によって、馬と犬と空とを違うものだと区別している、つまり分節化しているからなのである。もちろん、走る、歩く、飛ぶという概念も分節化している。そして、それぞれ分節化した言葉は、自由に組み合せることができるので、馬が空を飛んだり、パソコンがダンスを踊ったりすることができるのだ。この現実ではありえないが、言葉の上では可能なことを、ウィトゲンシュタインという言語学者は、論理可能性と呼んだ。

それって、嘘っていうこと、と言われれば、はいと答える他ない。

洒落て言うと虚構 。このことを短歌の上でやって見せて、人々の注目を集めたのが塚本作品である。

戦争のたびに砂鉄をしたたらす暗き乳房のために祈るも  『水葬物語』

恋人を、夫を、子どもを戦場にとられる女性の悲しみを訴える一首であり、反戦の意思が明らかである。文脈に沿って言えば、「砂鉄をしたたらす暗き乳房」という論理可能性、すなわち虚構の持つイメージが、この歌に訴求力を与えている。言い換えれば、虚構が今ある現実を激しく揺さぶったことを意味する。これは、本誌二月号で島田修三が述べたことと軌を一にする。島田は、色川武人の小説『狂人日記』をとり上げて、こう述べている。なお、色川は強度のナルコレプシー(睡眠障害)であった。

色川のナルコレプシーによる幻覚描写に価値があるとすれば、あの小説を読んで行くと、次第に私たちの現実感覚が底のほうから揺らぎはじめるという点にあるのかも知れない。そういう意味で、あれは怖い小説である。信じて疑わなかった日常の現実、素朴なはずの実在を、幻覚や狂気の側から相対化し、その意外なもろさ、危うさ、ひいては怖さを暗示するような異様な力に満ちている。(「夢うつつの河童」)

 塚本邦雄をはじめとする前衛短歌運動が切り拓いた虚構の表現、主に暗喩―先の歌で言えば「砂鉄をしたたらす暗き乳房」―については、いまさら述べるまでもない。すでに多くの研究や評論が発表されている。ここでは、言語の持つ論理可能性という点からさらに考えてみたい。 それには、玉城徹が北原白秋の作品を論じている文章が、示唆に富む。

病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑(はた)の黄なる月の出                 『桐の花』
洋(らしや)妾(めん)の長き湯浴(ゆあみ)をかいま見る黄なる戸外(とのも)の燕(つばくら)のむれ

こうなると、一首中にどんな主体もあらわれない。ハモニカを吹いている病んだ児、湯浴みしている洋妾は、もちろんのこと、対象である。この対象を見る主体は、いったい、どこにあるのか。それは作品中にはあらわれない。作者が、そういう場面を空想しているのだと、あなたは答えるだろう。それは、そうに違いない。しかし、その場合、空想している「作者」とは、現実的な個人としての作者その人でないことに注意しなければならない。個人としての具体性をすべて抜き去った、いわば超越的な「作者」としての作者が、空想しているのである。(『近代短歌とその源流』所収「『桐の花』再考」)

作者が「現実的な個人としての作者その人でない」とか、「個人としての具体性をすべて抜き去った」作者というのは、どういうことか。作者は、作者の居る現実の世界において体験した特定の事実を、歌の対象にしていないということだ。そのような作品世界は、一言で言えば、「空想」の世界に他ならない。歌に即して言えば、一首目は、日常的な生活風景を空想して描写し、病気の子どもの不安と慰藉をあらわしたのである。二首目は、異国的なエロティシズムを、湯浴みの場面を同様に描いてあらわした。すなわち、虚構の作である。このような歌い方を、私たちの多くは、寺山修司の作品世界によって、すでに親しんでいるだろう。前衛短歌の起点をどこに求めるかという議論も、すでに重ねられており、ここで触れるつもりはない。確かめておきたいのは、作品世界を、現実世界とは別に創り出すことができるということである。小説の世界では自明なことが、短歌という定型短詩でもできるということである。

白秋の歌に、かかる知見を得た玉城徹に、次のような歌があるのは不思議ではない。

夕ぐれのプラハの街を足ばやに役所より帰るフランツ・カフカ  『樛木』

 下世話な言い回しをすれば、見てきたような嘘、ということになるが、そこが作者の腕の見せ所なのである。歌には、今は無い、かつてのプラハの街が彷彿とし、カフカが「足ばや」に歩く姿が目に浮かぶ。生活者として平凡な暮らしを送りながら、独立した精神世界を築き上げた者への共感と畏敬の念が伝わって来る。

晩餐をしたためをへて厭世家ショペンハウエル笛吹きけらし  『われら地上に』

厭世家はいつも憂鬱な顔をしている、というような俗な解釈を斥ける。彼は世界に対して否定的であっても、人間の生を否定しているわけではない。生を尊び、喜ぶがゆえに、世を厭う思想を育む人物は、洋の東西を問わない。兼好然り、西行然り。そして、玉城自身、次のように述べている。

世界におそろしい不幸がみちみちていたとしても、その中に幸福に生きるすべを知った個人がいるからこそ、世界の幸福が目指しうるのだ。自分一人の幸福をしっかりと考え、しっかり手に入れること、それから始めて他人の幸福も考えることができるようになる。(『昭和短歌まで』)

繰り返すことになるが、この現実世界に幻想の世界を出現させるには、現実を相対化して揺らぎ与えようというモチーフなくしてはありえない。その意味では、リアリズムとかけ離れたものではない。

他人には平凡な公務員と見られようと、厭世家と見られようと、自らの生を満ち足りて生きる者を、玉城は畏敬する。そして、それが、この現実に生きる人々の生を強め得ると考えているように、私には思える。

すべなくてまた町を去る悲しみを永遠(とは)に残ししチャーリー・チャプリン 『徒行』

 長歌の反歌。ロンドンにチャプリンの像を建てようとしたとき、

税金を納めていないチャプリンの像を建てることに、市民の間から反対の声があがった。それに対して、玉城は、第二次世界大戦中の彼の営為を評価して次のように詠った。長歌から一部を抜粋する。

力なく心やさしく、悲しめる、わがどちがため、たたかひて、これの世を、生きむすべ教へしは、誰にかあらむ

 戦中にあって、無力な庶民を笑わしめ、励まし続けたチャプリンを讃えた一節である。町を追われるチャプリンの後姿は、この現実は厭うべきものだとも思わせるが、そのような世界に笑いをもたらすチャプリンの価値をも伝えてやまない。

孔夫子階下りくる足どりのきびきびとあり而(しか)もつつしみて  『蒼耳』

孔子は聖人君子である、というのが通説である。確かに立派な言説を今に残す思想家であろう。しかし、玉城が詠ったのは、異なる面である。為政の理想を説きながら、実際には用いられること少なく、諸国をめぐらざるを得なかったのが現実である。しかし、それでも、自ら恃むところ篤く、絶望することなく、信ずる道を歩んで、活発で明朗快活な人物像を創出した。世界がどんなに暗澹としていても、自らの幸福に生きようとする、玉城自身が投影されていると言ってもいいかも知れない。

夕かぜの寒きひびきにおもふかな伊万里の皿の藍いろの人  『樛木』

荒寥たる現実に、清楚な美しい女の人を空想する。決して絶望に陥らず、ひとりになっても幸福を求めようとする、作者のモチーフが紛れもない。

 玉城徹が独自に創出した、虚構の人物詠について述べてきた。「幻想」とは現実にありえないことをいうのであるが、この文章では「空想」、「虚構」にまで幅を広げた。とまれ、幻想、空想、虚構は現実に対する、反世界を創造する力を持つのである。それは、リアリズムとも無縁ではないだろうと考える。 

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