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「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」⑧福島泰樹歌集『百四十字、老いらくの歌』評

SNS時代の抵抗の歌
 小島一記

 歌集名の百四十字はTwitterの文字制限のことを指す。2021年2月から2022年2月28日まで1日一首をTwitterに投稿し、短歌373首と短文が纏められている。老いらくの歌とあるが、健康不安などの老いの些事を詠うのではなく、文学と政治の過去と未来を自由に往来する往年の福島節が健在である。コロナ禍二年目の混沌のなかで、国民の反対多数であった東京五輪の強引な開催に憤り、明治大正昭和の文学を行き来しながら抵抗する姿はエネルギッシュに絶叫する歌人の姿そのままで、付和雷同しがちなSNSの時代に、それを媒体としたことで、作者のぶれない態度が一層際立つ。

  死者は死んではいない 髪や指の影より淋しく寄り添っている
  拳あげ突きあげるひと叫ぶひと 曇り霞の老人ばかり
  生きるとは時代の悲しみ叫ぶこと首を縊きて死んだ人々
  たぐり寄せ肩叩くのさ、追憶を激しくさせて抱いてやるのさ
  あばよ、と肩を叩いてやりたかった俺の秘密を匿して死にき
  定型詩「短歌」もそうよきりきりと引き締め歌え、底より歌え
  人命よりも五輪を選びし者たちよ、居丈高にまた「三密」をいうな
  ウイルス下も聳える母校坂本よ! 区政は歴史文化を知らず
  君は母校を墨で汚すか、百年の憶い出! 壁に滲んでいるぞ


 一、二首目は震災死者を悼み、脱原発の停滞に忸怩たる思いを吐露する。東日本大震災から10年を「経産省前テントひろば」のデモの中で迎え、死者の思いに寄り添う作者にとって、そんな現場が「老人ばかり」であるという事実の寂しさ、悲しさが募る。三首目の「首を縊きて死んだ人々」は自死した岸上大作や戦前戦中、BC級戦犯等で処刑された人への思いが重なる。コロナ禍でも短歌絶叫コンサートに奔走したのは、死んだ人々を忘れさせたくないという思いによるものであろう。四、五首目は死別した旧友、知人への哀惜の歌。肩を叩き、声をかけて励ますのが著者流の別れの儀式なのだが、コロナ禍では家族葬になってしまい、その機会さえ失われてしまった。「遺族が死者を囲ってしまう」ことで社会がその人の事績を記憶する機会が奪われることへの抵抗感が肩を叩くという行為に込められている。六、七首目は権力に対する文学者、宗教家としての抵抗の歌。「定型詩『短歌』も」と並置されているのは「生の拡充」を唱えた大杉栄の言葉である。政治が人命よりも五輪を選び、仏教の「三密」という言葉の真の意味を捨て去って政治家が軽い言葉で安易に使っていることへの強烈な皮肉である。七、八首目は老朽化で解体された母校を惜しむ歌。非常事態にかこつけてどさくさ紛れにやられてしまうことが大小たくさんあり、この歴史ある校舎の解体もその一つである。校舎はそこにいま通っている子どもや教師だけのものではない。墨で母校を汚されたという発想は安易に「思い出」として美化されることへの違和感である。いいね!などと言い合うSNS時代の浅慮浅薄への抵抗の代表例と言える。

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