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「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」③三原由起子歌集『土地に呼ばれる』評

呼ばれた人 
 後藤由紀恵

『ふるさとは赤』に続く九年ぶりの第二歌集。九年前の本特集でも私が評を書いている。その中で「東日本大震災、続く原発事故によって喪われた故郷への複雑な感情をひたすら詠み続けるが、その根底にあるものは生まれ育った土地や家族やめぐりの人々への愛情と、それを奪われた怒り」と記したが、第二歌集でもその姿勢は変わらない。三原の故郷である福島県双葉郡浪江町は、十二年前に突然被災地となる。

  走らないスーパーひたちは雑草に襲われてゆく駅のホームに『ふるさとは赤』
  九年の重さのドアをゆっくりと開ければ広がる浪江の景色『土地に呼ばれる』

 スーパーひたちの走る常磐線は、二〇二〇年三月に九年ぶりに全線が開通した。やっと開通した電車に乗って故郷の駅に降り立つ気持ちは嬉しいばかりではなく、事故前に駅から見えていた風景がどうなっているのか不安でもあったことだろう。「ゆっくりと」からはそんな逡巡する気持ちが伝わる。一方で「仙台と品川つながる常磐線心は途切れ途切れのままで」という歌もある。常磐線は開通したが、故郷が震災以前の姿に戻ることはない。生まれ育った土地がどうしようもなく大きな力でねじ伏せられてゆく年月を見続けた歌人は、感情を吐き出すように歌を作り続ける。
  
  「まだ何も終わっていない」東京の雑踏歩けば叫びたくなる
  七年の月日過ぎ行く福島を思えばなかったことにする日本
  復興は「なかったこと」の連続で拠り所なきふるさとになる
  意見持つこと許されぬか町を出たわれも浪江を愛する一人
  ふるさとに否決されしか学び舎の解体延期の小さな願い
  壊されし店の二階のわれの部屋空気となって留まっている 
  「辛いならやめろ」と父に言われおり錠剤飲みつつ向き合う故郷
  宿命として受け入れるなり一時は離れし土地の歴史と真向かう

 東京に暮らしているがゆえに、福島を置き去りにしたような東京の様子をリアルに感じ、その苛立ちは国の姿勢にも向かう。それは例えば前歌集の「ふるさとにみんなで帰ろう 帰らない人は針千本の中傷」というような歌からも感じられる。しかし、本歌集では故郷である浪江との距離を感じる歌に目が留まった。自分が生まれ育った土地が「復興」という名の下に壊されてゆくことは「なかったこと」の一言で済むようなことではないが、すべてが自分の思うようになることもない。六首目は実家の取り壊しを詠むが、更地となり何もない空間を見上げると、そこには子ども時代の自分の姿が見えたのだろうと思うと切ない。心を寄せ続けた故郷から裏切られたような気持ちだろうか。辛ければ見なくても生きてはゆけるが、しかし三原はそこから目を背けることはしない。新たに故郷の土地の歴史から学びはじめるのだ。ここからまた故郷との関係も変わってゆくのだろう。短歌とは人生を受けとめる大きな器なのだと、読みながら何度も感じる歌集であった。

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