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「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」①鈴木加成太歌集『うすがみの銀河』評

勘違いを信じ込みたい
 塚田千束



  声変はりしてうたへなくなる曲の高音域にゐた夏の日々

 声変わりは男性だけでなく女性にもある、誰しも避けられない成長過程、あるいは進化の過程のひとつだ。皆二次性徴を経て以前とはちがう世界に立っている。だが、その違いにどれだけ注意を払うだろう? そのまま通り過ぎていくだろう世界を、鈴木加成太の第一歌集『うすがみの銀河』は、忘れ去らず丁寧にひろいあげている。

  あなたはあなたへ光呼ぶ風ばかり恋ひ、ぼくはしあはせなど信じない
  つけこめばあなたは許してくれただろう浜風に足ひらひらさせて
  夜のぬるいプールの匂い満ちてくる人体模型の肺を外せば


 一読してセンチメンタルだと思う。目の前のことなのにどこか遠くから振り返っているように感じる。「あなた」と呼びかけられた相手はうつくしく、どこか声変わり前の透明な、清潔な世界を思わせる響きだ。届かないから美しいのだろうか、風という触れられないもの、自分のものにはならないものに焦がれる潔癖さ、「つけこめば」という仮定のもとでの卑怯な甘えさえ許してくれるだろう「あなた」とは、あるいはひとりの人というよりあこがれを内包した輪郭だけの存在にすら思える。
 過去や遠いところを見つめるだけでなく、今まさに立っている世界の空気を丁寧に、敏感に描写することにも長けている。第六十一回角川新人賞を受賞した『革靴とスニーカー』が記憶に新しい。

  やわらかく世界に踏みいれるためのスニーカーには夜風の匂い 
  水流も銀の電車もひとすじのさくのわきを流れるひかり 
  一枚きりのスーツの上着かけるときパイプ椅子の背ぎッと噛みそう


 ここでの世界は学生から社会人になるという意識の変容、世界へのかかわり方への変革がみられる。まだスニーカーが足になじむ学生のままでモラトリアムの夜風をまとわせながらも自覚的に社会へ、責任を負う立場へ踏み込む姿が浮かび上がる。水の流れも電車が行きかうさまもまるで河の流れのようにあざやかで一瞬のひかりに近似していく。気を張って就職活動へ踏み出したその影にある緊張やくたくたになった疲労感などがパイプ椅子を軋ませている。
 丁寧な写実は幻想を膨らませるバネとなり、わっとあふれ出す鈴木の世界はうつくしくきらめいている。たとえばこんな歌。 

  カーテンが光と風を孕むとき帆船となる六畳の部屋
  火を盗むならば夜汽車の深部より、風は帆船の白き胸より
  飛行士は夏雲の果てに睡り僕は目を覚ます水ぬるき夕べに
  生前のわたしのような少年と淡き祭りの夜にすれちがう

 生前というのはほんとうに自分なのだろうか、おなじ「わたし」なのだろうか。あるいは、すれちがう少年が「わたし」であるような、そらの他人がどこかでつながっているような錯覚。勘違いだとしてもお祭りという非日常のなかで、どこか浮ついて現実感が乏しくなる瞬間で、その勘違いを信じ込みたい。

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