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『ファスト教養』の問題は、孤独とどう向き合うかという問題だと思う

※この記事は、僕が運営しているウェブサイト『あの日の交差点』に掲載しているものです。ウェブサイトの方では、参考資料もいろいろ掲載しているので是非覗いてみてください。

1.興奮に対してなすすべがない


ここ最近はとにかく頭が回らなかった。
ずっと眠たいしあらゆる活字は目を滑る。
何も考えられないし、知的好奇心もあまりない。
やらないといけないことだけが溜まっていく。
やっと頭が冴えてきたと思ったら、逆に飛ばしすぎてめまいを起こし、電車を途中下車して視覚と聴覚と触覚が失われていくなかでなんとか耐えるもバイトには行けなくなる始末。
視界は半分くらいしかないけれど、やっとのことで吐き気が少し治まってきたので水を飲もうとしたら、腕が意図した高さまで上がらない。
「あれ?上がらない」と思った時にはもう遅い。
さーっと音が引いていく。血の気も。
耳鳴りはない。静寂。
めまいで目が見えなくなるのは慣れているけれど、耳が聞こえなくなるのは初めて。
これやばいですよ。抗えない。
目も見えず音も聞こえなくなると「自分の意志ではどうにもならんことがあるのだな」と「自分のいた世界は主観なんだな」と謙虚になったりする。
そんな場合ではないのに。
陸上と長年の体調不良のおかげで重めのめまいが発動しても経験を活かしてパニックにならずに済んだ。
あー、陸上やっててよかった。

Photo by まひる

このめまいにはいくつか原因が思い当たるが、そのひとつとして「非常に興奮していたこと」が挙げられる。
最近は目に生気がないのが自分でもわかるくらいにぼーっとしていたので、久しぶりに頭が冴えていたことに嬉しくなって読書に耽り、最高に興奮した状態で電車に乗ってしまったのだ。
地下でマスクをつけながら興奮するとプチパニックになるという教訓を得た。
とにかく、興奮に対してなすすべがない。
それは、自律神経の切り替えが上手ではないことと深く関係していると思う。
例えば、外から自宅に帰ってきて部屋着に着替えないと頭が痛くなってしまう。
外行きの服を着ることで外行きのスイッチがオンになるので、この状態で家にいることができないのだ。
服を着替えることで家にいるモードに切り替えている。
このように、一旦入ってしまったスイッチを自分の意志で切り替えることがあまりできない。
興奮したら興奮し続けてしまうし、脳の処理能力が低下したら気づいたら1週間~1ヶ月くらい平気で経っている。
これをどうにかしなければならない。
我々は常に興奮に対して受け身であり、意志でコントロールすることはできない。
しかし、服を着替えるといったように行為でスイッチを切り替えることはできる。
この切り替えるスイッチをどれだけ持っているかが問題の中心になるはずである。
特に、興奮しすぎている状態がかなり危険なので、これに早急に対応する方法を見つけなければならない。
何か極端な状態に陥った時にフラットに戻す行為のことを、「目的なき手段」(「目的なき手段」あるいは、「わたくし、つまり Nobody」 )と呼んでいる。

自分が獲得した目的なき手段のひとつが散歩である。
孤独も興奮も大体これでフラットにすることができる。
しかし、自立とは依存先を増やすことである。
散歩のみに依存している状態はまだ健康的で自立しているとは言えない。
新たな手段を見つけなければならない。


興奮しすぎている時の、心臓の鼓動が脳に直接血液を流し込んでいる感覚。
あれは、あまり良いものではない。
本を読んでいるときや文章を書いている時にこうなりやすい。
興奮はいくつか種類があるが、次のふたつに大別されるだろう。
興奮してるだけで満たされる時と、興奮しながらさらなる興奮を求めてる時。
この違いは何か。
前者は気持ちを伴う興奮であり、後者は身体だけが興奮している状態である。
例えば、本を読んでいるときの興奮は前者である。
しかし、次第に興奮に気持ちが疲れてしまい、本を閉じる。
気持ちは疲れているけれど、身体だけはまだ興奮しており、横になって深呼吸しても鼓動と息は激しくなるばかりである。
こうなると、精神と身体の興奮状態にギャップが発生し、精神も興奮しそうなことを求めしまう。
ただし、本を読むほど体力のいらないことに限る。
こうして、別に望んでないのに動画を見てしまったり、SNSを見てしまったりする。
この状態が非常に気持ちが悪い。
望んでいない快楽ほど不快なものはない。
しかし、愚かなので快楽に負けてしまう。望んでいないし不快なのに。
この状態に真剣に向き合わなければならない。
そして、意志で立ち向かうことはできないことを前提に考えなければならない。
システム、行為によってスイッチを切り替える訓練をするしかないのだ。

後者に陥った時に興奮を抑えられるよう、興奮に耐える訓練をしなければならないのだ。
そして、精神を伴わない身体的な興奮に支配された時、我々はファストな興奮に手を伸ばすのだと考えている。
僕は、ファストな興奮とファスト教養は結びついていると考えている。
そこで、まずファスト教養に関する書籍を読んで現在の理解を整理することにする。

2.ファスト教養


教養という言葉を目にするとげんなりとする。
これは、自分自身がファスト教養と完全には袂を分かつことができていないことの証左なのだと思う。
ファスト教養とは、『ファストフードのように簡単に摂取でき、「ビジネスの役に立つことこそ大事」という画一的な判断に支えられた情報』(レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』<集英社新書 二〇二二>)であり、そういう”教養”のあり方である。

「ファスト教養」は往々にしてその界隈にエントリーするための手っ取り早いカタログないしダイジェストのテイを成しているが、むしろ『「ファスト教養」は別に何かをダイジェストで知ることそのものを指してるというより、そういう行動が「ビジネスの役に立つ、生き残る』みたいな動機に安直に結びつけられてる現象全体の説明なんですよね」と『ファスト教養』の著者のレジーは言う。

現代のビジネスパーソンが口にする「インプット」が「アウトプットを前提としている」という枕ことばを暗に前提としているのは、明らかである。

ファスト教養は、アウトプット(=お金を稼ぐこと)を前提としているインプットという価値観からきており、稼いでいる人間が偉くてそれは自身の努力によって達成されているという新自由主義と自己責任論に端を発する。 このことを整理、分析、批評したのが前掲した『ファスト教養』である。
これは本当に難しい問題だと思う。
なんとなく感じていたことをここまで整理してくださって、、ありがとうございます。
お疲れ様でした。と著者に言いたい気分だ。
ネオリベラリズム的、新自由主義的自己責任論が常にプレーヤーを脅し焦燥感を駆り立てることは、誰もが感じていることなのであらためて詳しく書く必要はないと思うけれど、ほぼ生まれた時から新自由主義下で生きてきた僕たちが生活を問い直す時、避けては通れない問題なのだ。
教養。この言葉は、ファスト教養的価値観によって殺されたと思う。 (ファスト)教養は新自由主義による焦燥感と密接に結びついているので、強迫観念を纏ってしまった。 そして、いまこの瞬間にも「教養」という言葉に強迫観念を感じてしまう自分がいるということそのものが、ファスト教養にまだ片足を突っ込んでいるということの証左なのである。
旧来的な「古き良きもの」的な教養主義もある種の強迫観念を持っているけれど、これは「界隈にエントリーするために知っておかなければならない」的な強迫観念であるのに対し、ファスト教養のそれは、教養がないと「稼げない」「負け組になる」「価値がない」というレッテル貼られてしまう強迫観念である。 後者の方が、生活がかかっている感じがする。だからこそ、キツイ。
学びが商品化されているということであり、インプットとアウトプットが短い直線で結ばれるということだ。
自分は何かに触れる折、考えたことを日記的に書き残していくようにしている(まさにこれ)が、これもファスト教養的な価値観から来るものなのだろうか。 そうだとしたらつらい。 手法としても内容としても、そういうものに対する自分なりの解答としてやってきたつもりだからだ。
この問題はあまりにも大きく、これまで書いてきたこともこれから書くこともあらゆる動機はここにある。 それはすなわち世界とどう関係するかということであり、あまりに甘美なので今にも足を取られそうになりながらもファスト教養的には関わりたくないということである。
ポストファスト教養として、オードリー若林さんの思索過程や、『POP LIFE: The Podcast』を例に出しながら結論をあえて明示しない雑談の可能性が書かれていた。 これは「我々は常に生産性を、良き生産者になることを求められ続けているが、まずは良き消費者になることから始めようという東畑開人さんの議論」にも繋がる。
本書の中で『花束みたいな恋をした』に何度か言及する。 『花束みたいな恋をした』は「個性を市場や情報環境の流れの中で無理やり求めようとした結果、自己主張は消費の一部に回収されて無害な記号化に陥ってしまう」という言葉で完璧に説明されたと思っていたけど、ファスト教養文脈でも語られていた。
あまりに、麦の描き方がうますぎる。 しかし、ファスト教養と出自としての文化資本が絡められるとやるせない気持ちにもなってしまう。
それこそ、出自という文化資本から解放されるために、教養を身につけるのではなかったか。

ちょっと休憩、アスファルトを突き破る根。しばらく眺めてしまいました。


Photo by まひる

3.ファスト映画


『ファスト教養』より少し前にファスト映画に関する本が出版された。
稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』<光文社新書, 2022>である。

ファスト映画はファスト教養の一部だと考えられるので、ファスト教養と書いた場合にはファスト映画を含んでいます。
『映画を早送りで見る人たち』にはこんなことが書いてある。
近年、映画(をはじめとする映像作品)を倍速視聴や10秒飛ばしをしながら見る人が増えており、作品受容の形が明らかに変化している。
この現象の根底には何があるのかをあらゆる角度から分析すると、次の3つが浮かび上がる。

①映像作品の供給過多
②現代人の多忙に端を発するコスパ(タイパ)志向
③セリフですべてを説明する作品が増えたこと

さらに、①②が根底にあり、③が加速させていると考えられる。
忙しいからなるべく早くストレスフリーに見たいというニーズに応えて、セリフですべてを説明する作品が増えていると考えられるということだ。
自分なりの解釈を踏まえながら詳述する。

①映像作品の供給過多


映像作品の供給過多は、あらゆる配信プラットフォームが整えられ、誰もが投稿することができるようになったことに起因する。

②現代人の多忙に端を発するコスパ(タイパ)志向


現代人が忙しいのはあらゆる理由が挙げられるが(例えば、貧困による労働時間の長期化など)、そのひとつとして「周りの話についていくために押さえておくべき作品が多すぎてチェックするのに忙しい」という現状が浮上してきた。
誰もが見ているメジャーなものがなくなった時代だからこそ、身近な友達でさえ見ているものが全然違う。5つのコミュニティに属していたら、5種類の”押さえておくべきもの”があるということだ。
「コミュニケーションのためのネタとして情報を仕入れておく」という感覚で作品を鑑賞することは、しばしば「コミュニケーション消費」と呼ばれる。
文字通りそれは鑑賞ではなく、消費である。

さて、「会話についていくための情報収集に忙しい」と書かれると、僕は当事者意識が少し薄れる。これはかなり限定された人の話ではないかということだ。
具体的に書こう。

「コミュニティに属するために話題になっているものを見ておかないといけない」という切迫感は、「話について行かないとコミュニティでの存在意義を失う」という危機感からくるものだ。
危機感を感じるのは「この人と一緒にいたい」という感情ではなく、「(気づいたら属してしまっていた)コミュニティに居続けたい」or「属していたら都合が良いコミュニティに居続けたい」という理由でコミュニティに属している場合だと思う。

僕のように、「とりあえずコミュニティに属しちゃった」みたいなことがあり得ない社交性を欠いた人間なら、コミュニティについていくための情報に悩むことはないのだけど(その分、孤独)、孤独をコミュニティで埋めることができた社交性に長けた人たちは、かえってその”属してしまえる”能力に苦しまされているのではないかと思われる。

このことから、この視聴スタイルとそれに付随する悩みに優劣はなく、特性の違いがあるのだと思われる。
「話を合わせてコミュニティに属すこと」ができない僕みたいな人間は孤独と真正面から向き合わなければいけないし、「話を合わせてコミュニティに属すこと」ができる人間は孤独を解消できるが話を合わせる努力をしなければならない、という違いが。
本文中のインタビューでは「(話題についていけないと)その場で私のすることがなくなるじゃないですか!私、何をすればいいんだろう…シーンみたいな(笑)」と話す大学生がいることを鑑みると、この場合の「話についていく」というのが「話について行く=知っている」ということに限定されている気がする。

知らないなら質問すればいいじゃないと思うのだけれど。
それでじゅうぶん話についていけるし、なんなら話題を特定のコンテンツから他のものまで結びつけて拡張させ、価値転倒を引き起こす可能性だって秘めている。
この意味で、コミュニケーション消費に追われる人は質問の仕方を知らないのではないか。もしくは「知らない」ということが言えない。
このようにコミュニケーション消費に追われている人は社会の中でもかなり限定されているだろう。

では、自分にはファスト教養をめぐる議論は無関係なのだろうか?
無関係なはずがない。むしろ渦中にいる人間なのだ。

4.「新自由主義時代の狭義な個性を求められる切迫感」とファスト教養の関係


4.1 狭い意味での個性


ここまでコミュニケーション消費とファスト教養の関係についてみた。
次に「新自由主義時代の狭義な個性を求められる切迫感」とファスト教養の関係についてみたい。
こちらの方がより、重大な問題のように思える。
耳にタコができるほど聞いた言葉だろう。

「個性の時代だ!」
しかし、この「個性」は狭義だと思う

新自由主義時代に生きる我々は、「社会に認められ」「貢献することのできる」個性を求められる。いや、さらに言うと「社会に認められ」「貢献することのできる」かつ「プロフィールに書くことができる=タグ付けできる」個性を求められているのだ。

個性がないと淘汰される

我々はあらゆる角度からこのことを刷り込まれてきた世代なのだ。
キャリア至上主義がこれを加速させている(最近、風潮は変わり始めている気がするけど)。
その上、ネットに常時接続することで常に世界大会に立たされ続ける私たちは、「個性的であれ」という言葉により押し潰されそうになる。
そこらじゅうに、自分に似ていながらも自分より遥かに個性的な人がいるからだ。
ミッドライフクライシスどころではない。
中年を待たずして危機にさらされている。

4.2 オタクという個性


この狭義の個性に目をつけられたのが、オタクである。
いつからかオタクはカジュアルなものになった。
自分でも記憶しているほど最近までオタクにはネガティブなイメージがあった。

カジュアル化したオタクは、何か特定のもの(こと)に詳しいという”個性”があるのだ。
個性を求められるけれど、個性が見つからない人たちは、1秒でも早くオタクになりたがる。
オタクに憧れる気持ちはわかる。
マストチェックな作品をできるだけ早く履修済みにしたいという欲求から、倍速視聴などファストな方法をとることになるのだ。

オタクに憧れるのは個性的だからだけではない。
オタクは好きなものに熱中しており輝いて見えるからだ。
自分も、他者など全く気にせずに、ニッチな趣味に耽っている人に憧れがある。

熱中しているオタクが輝いて見えて憧れるのには、理由が2つあると僕は思う。
一方は小さな物語を獲得しているように見えるからで、他方はSNSという相互評価ゲームから解脱しているからである。

前者は、評論家の宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』<早川書房, 2008>で「国家のため」「イデオロギーのため」といった自分の外部のものが人生の意味づけをしてくれた「大きな物語」がなくなり、個人がそれぞれ自分の手によって(究極的には無根拠であることを織り込み済みで)自分の人生に意味づけをする「小さな物語」を決断主義的に受け入れる時代になったのが2000年代だと評したように、人生の意味づけをできているように見えるオタクは輝いて見えるのだ。

後者は、結局、ファスト教養に振り回されている人たちはSNSが加速させる相互評価ゲームの渦中にいる人間なのだから、他者の評価などとうに及ばないところで勝手に好きなものを追求しているオタクは、自分達を悩ませているゲームから解脱しているように見えるから羨ましいのだ。
インスタを投稿している人より、投稿していない人の方が強く見えるのはこの意味で、である。

しかし、オタクは、一般人ならかけないであろう時間を特定の対象に注ぎ込むからこそ得られる感覚や視点を持っているし、何より、他者の評価などとうに及ばないところで勝手に好きなものを追求している。
この点で、マストチェックなものを倍速で、なんならネタバレサイトでストーリーをとりあえず追うことでは、オタクには到達し得ない。
オタクになるのに近道はできないのだ。

これは、単なる構造的倒錯であって、ファストなものを求める人に対する批判ではない。

ここまで書いてきたように、ファスト映画を含むファスト教養論は、「コミュニケーション消費」と「新自由主義時代の狭義な個性を求められる切迫感」、それに「入門」を加えて大雑把に整理されると思う。
ここまでが『ファスト教養』および『映画を早送りで見る人たち』を読んだ自分なりの理解である。
自分も当事者であると強く思っているので、ファストに消費したい人に批判的な気持ちは全くない。
その上で、とりあえず次の3つは考えてみたい。
1.ファストなものは、「おもしろがり方」のバリエーションを貧しくすること
2.簡単に「知る」ことができると思ってしまうこと
3.ファスト教養の本当の問題は、ファストに興奮できること


ちょっと休憩。このマンホールの点字ブロックのちぐはぐ感、良いですね。

Photo by まひる


5. ファスト教養を前にして考えたいこと


今のところ、ファスト教養論は「入門」「コミュニケーション消費」「(狭義な)個性の希求」に大別されるだろうと考えている。
その上で、とりあえず次の3つは考えてみたい。
1.ファストなものは、「おもしろがり方」のバリエーションを貧しくすること
2.簡単に「知る」ことができると思ってしまうこと
3.ファスト教養の本当の問題は、ファストに興奮できること

5.1 ファストなものは、「おもしろがり方」のバリエーションを貧しくすること


これは単純な話で、余白が多いほど受け手が誤読しやすい、ということに尽きる。
ファストなものは極力、退屈する余白が排除され、情報で埋め尽くされている。
そこに受け手の入る余地はない。
極端に言うと、内容やその先に広がる可能性ではなく、刺激を楽しんでいる状態に過ぎないとも言える。

例えば、どちらかといえば身近な人より映画を見ている自分でも、やっと「物語ではない映画の見方」を獲得してきた。
「ストーリーは覚えてないくらいにどうでもよかったけど、画が完璧だった」みたいなことがザラにある。
ストーリーの良し悪しが、映画の評価にそこまで重要ではなくなってきた。
これは経験から獲得された映画のおもしろがり方である。

現在の作品需要は対極の次の二つが目立つ。
1.過剰なネタバレの糾弾
2.ネタバレを見てからの視聴

前者は、わがまま(?)なファンダムがネタバレを規制し、ひいては公式が「ネタバレ解禁日」を設けるまでに至った。大きなファンダムがついているコンテンツほど顕著で、MCUシリーズや『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でも見られた。
「自分はネタバレ欲求に耐えられないので、環境の方を変えろ」と言うのは、生産的な場合もあるだろうけど、わがままの域を出ないようにも思える。
後者は、これまで述べてきたようなファストに消費する人たちに見られる。

ネタバレが過度に糾弾されるのと、むしろネタバレを見てからじゃないと安心して見れないというのは対極だが、表裏一体で出どころは同じな気がする。
それは、物語至上主義である。
あまりにも作品需要において物語を重視し過ぎている。
これは、看過すべきではないと思っている。
物語を重視しすぎることと、昨今のSNS事情、そして自由意志の問題(=起きている時間全てを能動的な行動で埋め尽くしたい支配欲)は通底している気がするからだ。
※この先についてはあまりにも問題が大きいので、いつか整理できたら書きます。

自分がファストに消費しているきらいのあるアニメなどは楽しむ回路が少ないことを自覚している。
他にも、街を歩けば歩くほど街の解像度が上がって出かけるのが楽しくなるのもこの話と通ずる。
量が質に変わる瞬間がある。
それは、ファストなものであっても起こりうるのかもしれないけど、必要な「量」が圧倒的に多くなってしまうだろう。
このようにファストなものは、「おもしろがり方」のバリエーションを貧しくする。

5.2 簡単に「知る」ことができると思ってしまうこと


ファスト教養で良いと思えてしまうこと=簡単に「知る」ことができると思ってしまうこと、だと考えている。
この事実は、「何を言っているかわからないけど、なんだか(自分にとって)重要そうなことを言っていることと向き合い続けること」を放棄しているのではないかという危機感がある。
例えば、本を読んでいると「何を言っているかわからないことが多いし、死ぬまでにわかるかどうかすら定かではないけれど、わかるようになりたい」という距離感でいることが多い。他にも、普段囲まれている本もPodcastも何を言ってるかわからないことばかりである。無力感に苛まれることはあるけれど、それらには求心力がある。

5.3 ファスト教養の本当の問題は、ファストに興奮できること


これを考えるために、ここまで書いてきた。
ここまで書いてきて浮かび上がるのは、僕がファスト教養を、常に主体論として捉えているということである。
新自由主義時代の狭義な個性を求められる不安感に対して、簡単に興奮できてしまうことが溢れておりすぐに溺れてしまうことに対して、自分はどうやって向き合えば良いのか。

基本的に僕は興奮になす術がない。
興奮に支配されているが、興奮を支配することはできない。
生活に刺激が溢れ、興奮し続けてしまう。
無性にファストフードを食べたくなるのと全く同じ感覚である。
ファスト教養はファストに興奮できてしまうコンテンツの一つである。
ファスト教養を求めてしまう人が多いことは、ファストな興奮に飢えている人が多いことでもあるかもしれない。
僕たちは、興奮について、もっと真剣に考えなければならないのだ。
ここからが本題である。

6. 興奮と孤独


6.1 興奮・快楽の度合いは加速度で決まる?


ファストな興奮について書こうと思ってここまで頑張って書いてきたけど、『 「瞬間的な快楽」への態度 』や『 なんとなく楽しくて、なんとなく楽しくない日々 』で既にちゃんと書いていて改
めて書くことがないような気がしてきた。。。

これらの記事と重複になるが、改めて書いておく。

興奮、快楽にはおそらく2種類存在する。
上昇的な快楽と充足的な快楽だ。
前者は身体的な興奮が主で、後者はそのものがただあるだけで身体的な快楽というより心が満たされる。
僕はサプライズやショートムービー、ギャンブル、そしてファスト教養は前者に当たり、ラジオやPodcastなどの音声コンテンツ、演劇、お笑いライブなどが後者に当たると考える。(もちろんそれぞれの中に例外は存在するので必ず二分されるわけではない。)

充足的快楽と上昇的快楽の違いを決定づけるのは興奮=快楽の絶対値ではない。
同じ高さであっても、充足にも上昇にもなり得るからだ。
では、両者の違いを決定づけるのは何か。

興奮の加速度である。
どれくらいの加速度で興奮するかによって充足か上昇かが決まる。
そして、興奮への揺り戻しとして鬱を引き起こしがちなのは、上昇的な快楽である。
そうすると、大きな加速度で興奮するほどに大きな加速度で鬱になる。
このことから、この充足的興奮や上昇的興奮とその揺り戻しによる鬱は、上に凸の二次関数の開き具合でイメージできるようになる。
インスタントに、瞬間的に興奮できてしまうものが世の中に溢れているいま、僕の二次関数の開き方は極めて小さくなり、大きな負の加速度を打ち消すためにまた、大きな加速度として強く瞬間的な快楽を求めようとする。周期の短いサインカーブのように興奮と鬱を繰り返しているのだ。

僕はこのことに自覚的にならなければならない。
では、負の加速度を打ち消すためにドーピングするという終わりのないサイクルからどのように抜け出すか。
完全に抜け出す必要はないにしてもどのように距離を取ることができるのか。
この問題の根本はおそらく、ファスト教養のように「インスタントに興奮できることで溢れている」という環境ではない。
むしろ、自分の内面の何かが私を興奮へとむけていることの方が重要だ。



6.2 記憶の蓋を開かないために興奮したい


いったい何が僕を興奮へとむけているのか。
國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成 中動態と当事者研究』<新曜社, 2020>の中で「記憶の蓋が開く」というキーワードが出てくる。
何もすることがなくなる(退屈になる)と、思い出したくないトラウマ的な過去の記憶の蓋が開きやすくなってしまう。
そして、その記憶の蓋を開かないために、あるいは閉じるために、覚醒剤や鎮静剤を使ってしまったり、過度に仕事に打ち込むことで覚醒度を0か100にしようとするのだと。
しかし、そういった「退屈しのぎ」はむしろ自分を傷つけてしまうことがある。なるべく傷つかないように生きようとするのが人間の本性なのに、むしろそれに逆らうような行動をとってしまうことがある。
僕はこの話を読んで、自分がずっと興奮しようとしていること=「いる」に耐えられずに「する」ことを探してしまうことは、まさに退屈になってトラウマ的な記憶を思い出してしまうのが嫌だから「退屈しのぎ」として瞬間的な快楽(興奮)に手を伸ばしているのではないかと思うようになった。

では、私にとってトラウマ的な記憶とは何か。
トラウマ的な記憶という大それた名前をつけてしまって良いかわからないけれど、それは「世界への孤独感」なのだと思う。

誰もが本質的に抱えている世界への孤独感。
これを考えないためにとりあえず興奮で埋め尽くしている。
極端なことを言うと、孤独から目を逸らすためにファスト教養に手を出している。

孤独そのものは決して悪ではないし、絶対に解消されるものではないと思う。
僕たちがひとつの身体を持ち、他の何とも同一化できないからこそ、孤独というものを僕たちは常に内包している。

だからこそ、僕たちは孤独をネガティブなものとして、なくすべきものとして考えるのではなく、むしろ受け入れる必要がある。
ファスト教養が蔓延し、僕たちがそれらを、そうと気づかず孤独を埋めるために過剰摂取してしまう現代だからこそ、どうやって孤独に生きるかを考える必要があるのだ。

6.3 孤独に触れる



宇野常寛は新著『砂漠と異人たち』<朝日新聞出版社, 2022>(や『遅いインターネット』<幻冬舎, 2020>)で次のように言った。
インターネットは相互評価のゲームになってしまった、と。
インターネットだけではなく、街はリアルなハッシュタグに侵食されてしまい、人々は土地そのものを見ているのではなく、そこについたハッシュタグを見ている。
相互評価ゲームで「書く」ことの快楽に溺れてしまっている僕たちは、その外部を目指さなければいけない。それは「ここではないどこか」を目指すことでも、強い男性的な主体になることでもない。
「いま、ここ」を速さにとらわれずに走ることで、遅く走る耐力を身につけることで、自分の外部に、人間の外部に、孤独に触れよう。
「歴史を見ること」で強い主体になるという自立を目指すのはなく、「歴史に見られる」ことで時間的外部に相対化された弱い主体になるという自立をしよう、と。

例えば個人的な話で言うと、僕は名古屋に越してきてからあまりにも土地に馴染みがなかったので、大学の教授におすすめの本(内藤昌『日本名城集成 名古屋城』<小学館, 1985>)を聞いて名古屋の街の成立を調べた。
この地域に街を開こうとしたこと、大規模な街丸ごとの引越しがあったこと、東西の中心地として栄えたこと、戦時中に大空襲でこの街のほとんどが焼け野原になったこと、戦後復興で大規模な都市計画がなされたこと。
自分が今歩いているこの道は、かつて焼き払われた道なのだ。
そう思った途端、ある思いが頭をよぎった。
そうか、自分は歴史の最先端を開拓しているのではない。過去から未来に向けて現在をつなぐことを担っているのだ。



こういう自分の一生を遥かに超えた時間軸の中に身を置いたとき、個人が何者であるかを示す「強さ」のために身につけた鎧はボロボロと剥がれ落ちる。
宇野常寛がいう、「歴史に見られる」というのを僕はこう解釈している。
本意は違うのかもしれないけど。


6.4 言葉という歴史


仏教についてちょっと話を聞いていたりすると、おもしろい話が出てくる。
仏教において言葉や法具は圧縮ファイル、Zipファイルなのだという。
言葉はロゴス、世界はピュシスだとすると、僕たちはピュシスをロゴスで考えている。
理解するとはそういうことである。
仏教はそれを驚くべき高解像度で行っているのだと思う。
しかし、ピュシスは連続的なものでロゴスは離散的なものなので、必ず言葉にした瞬間にこぼれ落ちるものがある。
くるりが『言葉はさんかく こころは四角』と歌っているように。

言葉を丁寧に扱う人は、この現実に真正面から向き合っていると思う。
そして、諦めずに挑んでいる。
仏教ももれなく、これに挑んでいるのだと思う。
その方法の一つが言葉をZipファイルにすることなのだ。

言葉にした途端、こぼれ落ちることはたくさんあるけれど、「言葉を聞いてあらゆることを想起できるように、言葉を鍛えていく」というやり方で仏教は挑戦しているのだと思う。
例えば、スターバックスという言葉を聞いた時、僕たちはロゴマークやコーヒーやフラペチーノや店内・店員の雰囲気や客層、あるいは店舗の場所や周囲を瞬時に想起する。
「スターバックス」という言葉でそれらを説明している訳ではないが、僕たちは「スターバックス」という言葉からそれらを想起することができる。
「スターバックス」というZipファイルをそれぞれが獲得してきた知識や経験といった「キー」で解凍する。
正確ではないかもしれないけれど、仏教ではこういうことをやろうとしているのだそう。
一つの言葉でいろんなことを想起できるように、言葉を鍛え上げる。
そして、鍛え上げられた言葉を解凍できるように人を鍛え上げる。

ともすれば、言葉は自分の思い通りになるツールとして簡単に使ってしまいがちだが、むしろ言葉は我々の人生より遥かに長い時間存在し、多くの人の手によって鍛えられている。
ここでは、僕たちが言葉を使うのではない。むしろ言葉を未来につなぐための使者となるのだ。
これは、池田晶子が言う「わたくし、つまりNobody」という言葉に収斂されている。

池田晶子は言う。

大事なのは「誰が」ではなく、誰かによって発せられた「言葉」が、次の時代の人々に引き受けられて、我々の「精神のリレー」が連綿と続いてゆくことである

わたくし、つまりNobody賞

言葉を言う主体が誰であるかはどうでも良い。発せられた言葉の方が遥かに重要なのだ。

「言葉」という「歴史」に見られる経験の中で、僕たちは本質的な孤独に向き合うことができる。
そして、孤独の中に身を投じことで、これまでの蓄積の中に身を投じることができる。
それは、孤独になることでむしろ、人類の蓄積にアクセスすることができるということである。
ひょっとしたらそこにはもう、孤独など存在しないのかもしれない。


僕が辿り着いた世界の果ては
名前を持たない人がいる 
足音を大袈裟に鳴らしながら 
僕は生まれて初めて一人になる 
冬の寒さに備えなくちゃな 
いい加減な気持ちでは越せないんだろうな 
鏡に映る知ったような眼差しは 
この一突きで終わらせることができるかな 
「遠くへ行きたい」と 君の声が響いてくる… ! 

青い花 / Mom

6.6 「誰かに勝つために走る」から「ただ走るために走る」へ



Photo by まひる

ジリジリと照り返しで、さらに熱い血液が全身を脈打つ。
日が傾いてその日最後のレースに競技場全体が注目している高揚とこれから始まる戦いに緊張とが合わさって極度にハイになった状態で、僕はトラックに立っていた。

一人、また一人とバトンを繋いでいく。
4×400mRほど痺れる競技はなかった。

実力以前に、力を出し切ることができるか、無事完走できるかがまず頭をよぎる。
過酷な戦いだった。
ギリギリの戦いの末、今、まさに自分にバトンが回ってこようとしている。
最後の力を振り絞って、今、自分にバトンを渡すためだけに全力を尽くしている仲間がいる。

「ああ、始まってしまう。」

バトンを受けとった僕は、ただ、これまで繋いできてくれた3人の思い(順位)をゴールに届けるために走った。
個人競技ではどうしても力の70%ほどしか出しきれていない感覚があったが、4×400mRだけは120%で走ることができた。

ただ、目の前の人に勝つ。
並んで走っている人に勝つ。
高校生活の3年間、いや、小学5年生の頃から陸上競技をしていたから約8年間、そのためだけに走った。
誰よりも速かったわけではないけど、そこそこ走るのが得意だった僕は、たまに表彰台にのぼることができた。

走ることが僕のアイデンティティになっていた。

高校を卒業するとともに、約8年間続けた陸上競技が生活の中から一切なくなった。
特に走りたくてうずうずすることもなかったし、もう一度トラックを走り抜けたいという思いも、あの頃の自分より速くなりたいという思いも、全くない。
驚くほど、陸上競技がない生活に違和感はなかった。
しかし、陸上競技は想像以上に自分にとって大きなものだったのだと、今になって思うようになってきた。

結局、自分は小学校から高校まで「ちょっと走るのが得意」ということを自分のアイデンティティとしていたのだ。
逆にいうと、それがない自分というのをあまり考えたことがなかった。
走ることと自分はイコールだった。

大学に入学するとともに、この事実と向き合わなければならなくなった。
というのも、大学は嫌でもアイデンティティとは何かを考えさせられる場所だからだ。
高校までは、所属するクラスや部活がありその集団への帰属意識がそのままアイデンティティとなっていた。
「〇年○組の△△」「〇○部の△△」といった認識が当たり前のものだった。

自動的に何かの集団に帰属させられていた高校までと、帰属する集団は自分で作らなければならない大学とでは環境がまるで異なる。
あらゆる条件が重なって、大学に帰属する集団を見つけられなかった僕は、帰属意識ではないアイデンティティを求めざるを得なかった。

真っ先に「何かを好き」ということをアイデンティティにしようとしたが、『花束みたいな恋をした』を見て挫折したのが2021年初頭だった。

それから一年をかけて、「何が好きか(嫌いか)」という記号ではなく、「どう好きか(嫌いか)」というスタンスあるいは文脈が、アイデンティティになるのだと考えるに至った。



Photo by まひる


今、週に2,3回、家の近所を歩いたり走ったりすることを習慣化しようとしている。
体力をつけるためでも、体づくりのためでもなく、ただ走る(歩く)。

その時間だけは、街の美しさに純粋に感動できる。
ビルの隙間から見えるビル。
真っ直ぐな道路と高く青い空。
寺社仏閣越しに見える都会。
街を生きている人。
毎回景色はそんなに変わらないけれど、いつもと同じものにいつもと同じように感動できる。
感動とまではいかなくても、「そこに居られる」くらいのことがものすごく心地よく感じるようになってきた。

Photo by まひる


街に対して、自分は何かをしている訳ではないし、何をしてくれる訳でもない。
街に僕は何も求めていないし、街は僕に何を求めている訳でもない。
お互いに、居なくても良い。
でも、居ても良い。
何者でもなく居られる瞬間。何者にならなくても良い瞬間。
自我を無くし街の一部になることを許してくれる瞬間。
そういう、存在肯定が走る(歩く)ことにはある。
同じような存在肯定が料理にもある。
料理をするとき、作った僕は創造主であるという認識は全くない。
むしろ、作られた料理に対し、リスペクトというか、「いただきます」といった畏怖の念が少しばかり芽生える。
料理をする。そして、食べる。
この一連の行為が、僕が何者でもないことを肯定し、食という圧倒的なものの前に平伏すことを許してくれる。

僕は街を走る(歩く)時、料理をする時、「何者でもない」という弱者になることができる。

「誰かに勝つために走る」から「ただ走るために走る」へ、移行の過程に今まさにいる。
これは、整備されて閉じたトラックを走る陸上競技者から、街を走るただのランナーになるというだけでなく、「社会の競争に勝ち抜く(強くなる)ことで自立し得る」という考えから、「自分を遥かに超えたものの(帰属意識とは違う意味で)一部を担う(弱くなる)ことで自立することへの挑戦」へ移行しているとも言える。

陸上競技に約8年間も浸かっていたのだから、「ただ走る」ことができるようになるには同じように8年間くらいかかるかもしれない。
今は折り返しあたり。

Photo by まひる
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(おわり)
※この文章は2022年11月3日に書いたものです

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