雑記1 わからないことをわかる
ぼくはひとをわかりたい。
特に、周縁に居てくれるひとたちを。
わかってあげたい、までいっちゃうと、ちょっと驕りがでてきちゃうけど、まああながち間違ってはいない気もする。なんて頭が高い。
でも、ひとは完璧にわかりきれない、わかりあえないことも、知っているつもりだ。もしわかり合えるならば、ぼくは今頃友達100人をゆうに超えていた、かもしれない。
そんなぼくは友達が少ない、とおもってる。
どうだろう、友だちのみんなから見て、ぼくは友だちでしょうか。
ぼくはあなたのことを完璧にわかりきれないし、わかりあうことができないかもしれないけれど、それでも、わかりたいというきもちはとまらないし、わからないこともわかっておきたい。
いつかのテレビで、取材を受けたじいちゃんばあちゃん夫婦が「結婚は忍耐」って言っていた。
たしかに、なるほど、、なんて平然な顔で思いながら、心のどこかで「た、たえるのか、」なんて少し狼狽えている自分がいた。
けれどそもそも、ひとと関係を持つこと自体、けっこう相当な忍耐を要するんじゃないか。生まれも育ちも考えも感性も違う人と対峙する。そう考えたら、みんな修行僧みたいに見えてくる。
常日頃、誰かと話して、パートナーがいる人はその人と毎日のように話し、一緒に住んでいる人はおはようとおやすみを共にする。す、すげえ。
ただ、やっぱり耐えるというのは、ちょっとしんどいなと思う。歯を食いしばって踏ん張って、自分を守る、そんな感覚に等しい。
対して、そんな臨戦態勢じゃ、いつか耐えきれなくなって戦争でも起きてしまうこともあるだろう。
そんな戦争も、元々は平和を望んではじめるもの。じゃあなんで結果的に本末転倒なことになってしまうのか、それはもしかしたら「平和」を望んでいるからなのかもな、なんて思う。
平和は「平たくおしなべて和をつくる」と書く。その行為って本当に平和なのかな。少なくとも、誰かの和にはまらないことも考えられそう。
今求められている平和は、おしなべるようなある種自他が乖離したものではなくて、柔らかくしなやかにわからないことをわかり、それでいておしつけず、それぞれの歩幅をそれぞれのままに、うまくリズムをつけるような、自他が絶妙に溶けた関係ともいえるものなのかな。
おせっかいとか、そういったものはもしかしたら、「ひとはわかり合えない」という前提のもとでようやく成り立つ他者との対峙の仕方なのかも。
それはもう「平和」というより「柔和」に近い、あたらしい定義があってもいいのかもしれない。
だからやっぱり、ぼくはひとをわかりたい。
「柔和」な関係を周縁に築いていけるように、まず側のひとの、「わからない」ということを、わかっておきたい。
そして特に大切な存在だと思うひとたちのことは、わかりたい。
あわよくばでいいので。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?