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ガガンボ教

 中学二年生の男子の久良木くらきは、どちらかといえば影の薄い存在だった。
 久良木はいつも静かで、教室の片隅で一人ぼっちで過ごすことが多かった。特に目立つこともなく平凡な日々を送っていたが、それはそれで悪くないと思っていた。
 ただひとつ、もし願いが叶うならば、憧れの花野はなのと話がしたい。もっと彼女とシンコウを深めたい。久良木には内に秘めたそんな想いがあった。それは意外なカタチで叶うこととなる。
 全てはガガンボ教の導きによる。

「久良木のあのハンドボール投げはないぜ」
 休み時間に大和田おおわだが大声で話す。
 久良木は運動のセンスがなく、力も平均に比べてだいぶ劣る。体力テストのハンドボール投げで、ボールを下から両手で投げた。それでもボールは真っ直ぐ飛ばず、真上に上がって鼻先をかすめて落ちた。
 久良木は恥ずかしくて消え入りたかった。
 男子がグラウンドの中央でハンドボール投げをしていたとき、女子はトラックで持久走をしていた。花野は優雅な走りでトップを独走していた。それに比べて自分は……、と久良木は滅入っていた。そんな姿を憧れの花野に見られていなかったことが救いだった。
 それなのに、大和田はクラス中に聞こえる声で久良木の醜態を語った。
 大和田は久良木と少し複雑な関係にある。大和田の父親は久良木の父親が経営する工場で働いていた。しかし、素行そこうに問題があり工場を辞めさせられたと久良木は聞いている。また、大和田は家が貧しく、学校の給食費を払っていないという噂もあった。親の問題ながら、久良木は多少の後ろめたさを感じていた。
 それまでは微妙な距離感でいたが、この数日やたらと大和田が絡んでくるようになった。
「久良木は本当に非力だよな。おい、腕相撲するぞ」大和田は自慢の太い腕をドンと机の上に出した。
「ええ、いいよ。勝てるワケがないし」
「そんなん分かってるよ。両手でこいよ」
「ええ……」
「やれよ。両手だぞ」周りがはやし立てる。
 久良木は仕方なく大和田の前に座った。念の為に眼鏡を外して胸ポケットに入れる。大和田の手は大きく、握ると熱かった。手首の太さが倍はあるように見える。約束通り、久良木は両手を使う。
「いくぞ。レディ……ファイッ!」
「ああ!」
 勝負は一瞬だった。
 久良木は力をかけた方向と逆側にねじ伏せられる。椅子から転げ落ちて、床に投げ出された。大袈裟にもがいたせいで、後ろの机に体をぶつけた。
「ちょっと久良木」ぶつかった机の持ち主の女子が文句をつけた。
「ごめん……。だって」
 バキッと、足元になにかを踏んだ感触があった。久良木が足を上げると、そこにはフレームの曲がった眼鏡が落ちていた。

 放課後、久良木は肩を落として帰路につく。
 校門を出た直後「久良木君」と声をかけられた。
 久良木はビクッとして声の方を見た。この声は……。
「花野……、さん。どうして」
「ふふ、散々だったわね」花野は久良木の眼鏡を指さして言った。
 無理やり曲がったフレームを戻したせいで、久良木の眼鏡は歪んでいた。
 やはり花野に見られていた。よりにもよって花野に。
「一緒にいいかしら?」
「あ、うん」
 どういう風の吹き回しだろうか。花野が一緒に帰ろうだなんて。
 話したことがないワケじゃない。なぜかいつも花野の方から話しかけてくるのだ。あいさつ程度のものだが、それでも久良木にとっては嬉しい出来事に違いなかった。
 花野は美人だ。それに頭も良く、スポーツ万能。才色兼備とは彼女のためにある言葉だと思う。本人はそれを少しも鼻にかけない。ここまで出来が良いと、妬まれたり悪く言う人もいそうなものだが、そういった話を聞いたことがない。いったいどうなっているんだ、花野は。
「ガガンボ教よ」
「え?」
「ガガンボ教」
「ガガンボ? ……ってあの?」
「そう。蚊を大きくしたような虫ね。人によっては気持ち悪いという人もいるかしら。それでもね、ガガンボは無害よ。農作物を食べるから害虫という扱いだけど、人には全く危害を加えない。ただ、漂っているだけ。そんなガガンボの生き方にならう宗教よ」
「宗教? それが……」
「久良木君に必要なものなんじゃないか、と思って」
「僕に?」
「ガガンボは見た目こそ大きな虫だけど、とっても弱いの。無闇に触れたりしたら足が取れちゃう。強い風に吹かれただけで、きっとバラバラになってしまうわ」
「つまり?」
「誰もが皆、お互いをガガンボだと思って生きるのよ。他人に優しく接するようになるし、自分のことも大切にするはずよ」
「こんなこと言うのもアレだけど……、僕は充分弱いよ。他人に乱暴なんてしたことないし」
 久良木はそう言ったものの、本当はガガンボ教なんて胡散うさん臭いと思っていた。しかし、花野の言葉は無碍むげにはできない。
「明日の朝、ホームルームの前に格技場に来てもらえるかしら。そうしたら、納得するはずよ」
「格技場って、あの剣道部と柔道部が使っている?」
「ええ。明日の朝はどこの部活も使っていないはずだから」そう言って花野は小指を差し出した。「明日の朝。約束よ」
「約束……」
 久良木は小指を差し出して、花野の細い小指と絡めた。力を込めると千切れてしまうような気がして、ゆっくり優しく指切りをした。

 薄暗い格技場には、窓から差し込む朝日が光の筋となって浮かび上がっていた。
 とても静かだ。格技場は校舎から距離があるため、朝の喧騒とは切り離された空間となっていた。
 花野は小さな声で囁く。しかし、それはしっかり耳に届き脳にみ渡る。
「ひとつ、われわれは、きわめて弱い生きものなり。ゆえに、自己をいたわるべし。
 ひとつ、われわれは、人の弱さを知るものなり。ゆえに、他しゃをいたわるべし。
 ひとつ、われわれは、ガガンボなり。ゆえに、なにも望まず、ただ、空をただよふのみ」
 目眩をおこしそうになる。何を見せられているのか久良木は理解ができなかった。目の前にアイマスクをして椅子に座らせられた大和田がいる。
 大和田の耳元で花野は言った。「さあ、大和田君。新しい世界へようこそ」花野は大和田のアイマスクを外した。
「ひっ」
 大和田は花野と久良木から逃げるように離れる。フワフワとした動きだ。
「大和田君はガガンボ教の敬虔けいけんな信者になりました」
「どうして彼が」
「大和田君は家庭環境で悩んでいたわ。苦しんでいるのを見かねて私が声をかけたのよ。彼のような人はガガンボ教に向いている。大きな体は他者を攻撃をするためじゃなく、自分を守るために使うべきよ。ガガンボのようにね」
 大和田は光の筋へフワフワとした動きで近づく。
 彼の悩みはこれで解決したのだろうか。もう、苦しむことはなくなったのだろうか。
「ふわふわー。ふふふ」
 大和田のあらゆる悩みから解放されたような顔を見て、久良木は少し腹が立った。ほんの少し、ささやかな仕返しをしようと、大和田の耳元に「ふっ!」と息を吹きかけた。
「ひ! 体がバラバラになる!」大和田は四肢ししをバタバタと動かして久良木から逃げた。
 その光景を見て花野は微笑んだ。朝日が後光のようにさす。
「ガガンボ教へようこそ」

 了

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