サキモリノウタ
老人ホーム『サキモリ』の朝は早い。
田代は、まだ夜も明けきらないうちから利用者に食事を提供するために準備をしていた。
作業は完全にマニュアル化されている。食材は全て準備され、中央から送られたレシピ通りに調理を進めるだけだ。とはいえ、こういった仕事が初めての田代は時間に追われて焦っていた。作業を効率的に進めるために、何度もレシピを確認しながら手を動かす。
それに反してベテランスタッフたちの動きは無駄がない。同時に二つの調理を進めることなど当たり前で、田代はその手際の良さに感心するばかりだった。
注意をしないといけないのは、利用者の噛む力に合わせて提供する食事の大きさを変えなければいけないことだ。
今日は『きざみ』が二人分で『極きざみ』が一人分。それらは調理された食事を、どれだけ細かく刻むかを意味する。
極きざみの食事を提供する必要のある人は、このサキモリでは近藤という男性の利用者だ。
ホワイトボードの近藤の名前の横に、星のマークがついている。
「よりによって、今日は近藤さんが当番だなんて」田代はため息混じりに言った。
「仕方ないよ。順番だからね」介護スタッフが返す。調理場のカウンターを挟んで、田代とは反対側に立っている。「それに、サキモリへの入所も近藤さんたっての希望だからね。食事が終わったら薬の投与だ」
朝食の時間になり、利用者たちがカウンターの前に並ぶ。田代たち調理スタッフは、作った食事をトレーに並べる作業に入る。これが調理スタッフにとって一番慌ただしい仕事になる。
利用者の名札に書かれた『きざみ』などの食事の提供スタイルの欄を注視して配膳する。待たせてはいけない。正確さとスピードが求められる。
あらかた提供が進み、用意した人数分の食事も順調に減っていった。
ピークを越えた頃、『極きざみ』の名札をつけた利用者がやって来た。近藤だ。
特別に細かく刻まれた食事をトレーに並べる。
「いつも悪いね。ご苦労さま」
近藤はニコニコと笑いながら、調理スタッフに労いの言葉をかける。
小柄でいつも笑顔を忘れない気のいい人だ、と田代は思う。
「近藤さん、ご健闘を祈ります」「どうか無事で」田代や他のスタッフは、次々に近藤を鼓舞する声をかけた。
「まっかせといてー」近藤は細い腕をぐっと掲げた。
昼前に警報が鳴る。
予報通りの時間だ。
「すみません。あの、ちょっと仕合いみてきてもいいですか?」
「ああ、田代くん初めてだっけ? 舞台に近づき過ぎないようにね」
田代は衛生キャップとエプロンを投げ出し、舞台へと駆けた。
サキモリの裏には、しめ縄と紙垂で囲われた舞台がある。その中央に、ゆらりと立つ黒い影。それは『ノバセリ』と呼ばれる。グリズリーのような恐ろしいシルエットをしている。
あるときから、人類は母なる地球から間引きを受けるようになった。それは地球の免疫システムによるものだ。長い間、人類は目に見えない敵に抗う術がなく、ただその数を減らすのみだった。
しかし、いつしか人類は見えない敵を、カタチ持つものに落とし込むことに成功した。
ノバセリは地球の免疫システムが、空蝉の法によりカタチを持ったものだ。
地殻に沿って分けられたエリアにノバセリを誘い込む。それは、物理的に破壊することができる。ただし、ノバセリに干渉できるのは、特別な薬の作用を受けた者だけだった。
老齢の戦士が戦わなくてはいけない理由は、薬が特定のタンパク質に作用するためだ。若い体には、そのタンパク質が存在しないため、薬の成分が適切に働かない。また、その薬には副作用がある。
「あいつを斬ればいいんだな」
袴姿の男が刀をとった。
それは近藤だった。
二十代前半くらいの姿をしている。
薬の副作用は、一時的に服用者の体を若返らせる。それは、若い体に薬が効かない理由でもある。
「近藤さん、気をつけて」「無理しないでね」「ぶった斬れ、近藤さん」
舞台に声援が飛び交う。
近藤は刀を鞘から抜いた。
「まかせろ」ギラリと鋭い眼光が輝く。
頼もしい近藤の背中を見て、田代は思った。
自分も、いつか彼のように歳を重ね、若者を守る人間になりたいと。
了
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