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ヤマネコ

 知多ちたは慎重かつ素早くデリータをセットする。
 デリータの二脚を固定し柵の隙間からマズルとフロントサイトを出す。スコープを覗くと知多のいるビルの屋上からでも街の人々がよく見える。
 スコープにオプティカルユニットを装着する。オプティカルユニットは瞳の動きに追従してターゲットをロックオンすることができる。
 支給されたエネルギーパックをマガジンモジュールに差し込むと、低いハミング音が響いた。デリータのセットが完了した合図だ。
『こちらハゲワシ。聞こえるか?』
 見計らったかのようなタイミングで無線が入った。
「こちらヤマネコ。よく聞こえるよ」
『キミのいるビルから真っ直ぐ500メートル先にノーブルというホテルがあるだろう』
「ああ。フロント係の名札まで見える」
『今からチェックアウトする人物がターゲットだ』
「了解」
 懐かしいと思った。知多は以前ノーブルに宿泊したことがある。何年も前に、そのとき交際関係にあった恋人と宿泊した。別れた理由はなんだっただろうか。多分コレといった理由はない。ただ、自分たちに未来はなかった。知多は隠さなければいけないことがたくさんあったし、そんな自分と一緒に歩んでほしいなんてわがままは言えなかった。
 忘れたいかと問われれば、答えはノーだ。つまずいた記憶を片っ端から取り除いたあとには、ヤマネコとしての偽りの人生しか残らない。転んで立ち上がるのが人間らしい生き方じゃないだろうか。
『来たぞ。ターゲットだ』
 エントランスのドアが開き、二人組がホテルノーブルから出てくる。
りつ?」
『どうしたヤマネコ』
「いや。ターゲットはどっちだ?」
 エントランスから出てきたのは男女の二人組だった。
『女の方だ。念の為に言うが、向かって右側のラクダ色のコートを着ている方だ』
「そうだろうな」
 ターゲットは知多が以前交際していた女性だった。見間違えるわけがない。オプティカルユニットは律の唇の動きを読んだ。『これからどこに行く?』隣の男、おそらく今の恋人と話しているようだ。
『おい、ヤマネコ』
「本当に消さないとダメかな」
『なにを今さら。やらなければ、お前の方がアナグマに消される』
「言ってみただけだよ。わかってるさ」
 ターゲットはアナグマから告げられる。ヤツさえもただの仲介者に過ぎない。選別はランダム……のはずだ。それがよりにもよって律だなんて。おかみの意思が介在したと考える方が自然だ。理由は、知多と関係を持ったからだ。
『エネルギーパックは一発分だ。次はないぞ』
 半端に外せば苦しむのは律だ。覚悟を決めないといけない。
 知多は息を吐いて、鼻から吸って八分目でピタリと止めた。独自のメンタル操作により心拍数を意図的に低下させる。オプティカルユニットは律の頭部を完全に捉えた。知多の体で動いているのは、心臓と人差し指だけだ。指をトリガーにかけるのと、それを引く動作はワンセットだった。
 マズルから射出された圧縮エネルギーは律の頭部を貫いた。
「クリア」
『クリア確認』
 デリータのハミング音は消えた。
 知多の心拍数も通常に戻る。
 任務は静かに完遂されたのだ。
 その証拠に、律は先ほどと変わらない様子で街路を歩いている。
 支給されたエネルギーパックは律専用に特別に調整されたものだ。圧縮されたエネルギーは脳の海馬に届く。それはターゲットの記憶領域の波形と位相が180度正確にズレた逆相波形で、特定の記憶を打ち消す。どの記憶が消されたのかは分からないが、知多に関する記憶が消されたと考えて間違いないだろう。彼女にとって知多は他人になったのだ。
 スコープから見える律の顔は幸せそうだった。二人はそのまま路地を曲がり、知多の視界から消えた。
 さようなら、律。

 ふと、ついさっきまで覚えていたことを忘れてしまうことがある。〝ど忘れ〟と呼ばれるその現象の対処法を二つ紹介する。
 一つめは、またふとした拍子に思い出すから放っておくこと。
 二つめは、決して思い出すことはないから放っておくこと。
 二つめに関しては、どうすることもできない。なぜなら、ヤマネコが完全に消し去るからだ。

 了

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