*自己紹介*「残業の無い世界を作る」41歳 会社員の覚悟
「悪・即・残(斬)!!!」
初めまして。
「日本の残業をぶった斬る」をテーマに、X/Twitterで発信をしている、まひろと申します。
ちょうど1年前。2023年の1月20日。
私は40歳の誕生日に会社を辞めました。
一部上場のホワイト企業で18年。年収8桁に届いた。
周りから見ると「恵まれた環境」でした。
そう、外面は。
でも内側は、悩みと苦しみにまみれていました。
上司との関係が悪い。会社にいくのがつらい。
仕事の評価や他人の要請に振り回される日々。
サビ残を含め月80時間は残業。土日はぐったり。
悩みを抱え会社と家を往復するモノトーンな毎日。
「アラフォーだし、このまま人生終えるのかな‥」
その色褪せた人生が40歳で一気に動き始めました。
理由は「脱・残業」で、時間を確保できたから。
転職を機に、月80時間の残業が2時間に激減。
おかげでXの発信・茶道・読書など、「新しい」を始める余裕を手に入れました。
「残業はなくせる」。自分で残業なしを生活を半年以上続けて、その道筋が見えました。
「転職」「後回し禁止」。そして「思い込み」。
は?思い込みって何だよ?と思いますよね。
(ゴメンナサイ)
「転職」と「脱・残業」の流れはチャプター⑭⑮に書きました。ぜひ読んでみてくださいね。
そして時間がうまれて、新たな目標が出来ました。
「残業のない世界」=「会社員が選択できる世界」
会社員だって、やりたいことが出来るんだ。
1年前の私のように、もし悩んでいる人がいるなら。
このnoteとXの発信を通じてこの経験を届けたい。
自己紹介と共に、そんな想いをお伝えできると嬉しいです。
【最初に:このnoteを読んでほしい方】
以下に該当する方は、このnoteはおススメです。
・残業が多いけど抜け出せない。
・会社員として働いてきたけど、将来が不安。
・アラフォーだし、もう無難に生きていくつもり。
そう、これは1年前の私そのものです!
なので自信を持ってお勧めします(ドヤ顔)
逆に「幸せが口からまろび出そう」と言う方は、そっとnoteを閉じて頂ければと思います。(ウソです、閉じないで〜)
『本当に読む価値があるのか?』
少しだけ読者の方より頂いた感想を紹介します。
転職インフルエンサーの先頭を走る、あのあふろんさんから、感想を頂けました !
無料noteに差し入れまで頂きました!ありがとうございます😭
損はさせませんので、ぜひお付き合いくださいね✨
それでは前置きが長くなりました。始まり始まり!
①まひろの概要
話が読みやすくなる基本情報を少しだけ。
年齢:41歳(1月20日生まれ)
職業:会社員(営業職で17年。転職後は営業企画)
家族:幼少期は父上/母上/姉上(3つ上)
今は家族と4人ぐらし(妻、中一、小5)
趣味:ゴルフ・囲碁・散歩・Voicy(耳学アプリ)・にゃんこ大戦争(卒業)
外見:「のび太」に似ています。
備考:大学時代に「古武士」と呼ばれた経験あり。
1日1個のアイスがないと弱ります。
ココ壱の1.3kgカレーを11分で完食
(歴代2位の速さ)
②幼少期の自分「変わった甘えん坊」
1983年1月20日。鹿児島で生まれました。
ちなみにあの宇多田ヒカルさんと1日違い(ヒッキーは1月19日。惜しかった…)
「脳に障害があるかもしれない」
産まれたとき言われたそうで、母はちゃんと育つか
心配だったとのこと(今でも心配してます)
父親は銀行員で土日も不在がち。基本的に母っ子。
そして幼稚園の運動会では、「ひろしくんの隣じゃなきゃ嫌だ」といって、躍ることを拒否。母はマジで泣いたそうです(母ちゃんゴメン)
そんな私ですが、両親は褒めて育ててくれ、幼少期の嫌な記憶は、ほとんどありません。この後に襲いくる「暗黒の小学校時代」を乗り越えられたのは、この時期に自己肯定感を育んでくれた、両親のおかげです(大感謝)
40歳になっても、子供扱いです。
③転校とイジメの小学校時代
転勤族の父に連れられ、子供のころに3回引っ越しました。
赤ん坊のころに鹿児島から東京へ。(覚えてない)
幼稚園卒業と同時に東京から埼玉へ。
そして小学校3年生で埼玉から大阪へ。
そして大阪に転校したとき、人生に影響を与える経験をします。
そう。転校生あるあるの『イジメ』です。
小学校3年生から4年生の1年半は、人生でつらい時期の一つでした。
詳細は以下のポストにつづっています。
振り返ると、自分の個性の一部が、このタイミングで形成されました。
‐大勢の人が苦手(最近は少し改善)
‐偉そうな人がキライ(いじめを連想させる)
‐部下・後輩に甘い(気を遣いすぎる)
今は「過去を乗り越えよう」と、マインドブロックを壊している所です。
さいわい5年生のクラス替えでいじめは収束。サッカーを始めてから友達も増え、楽しい生活に戻ることができました。
<ポイント>
大人になっても、子供の記憶が無意識に影響していることがあります。過去を振り返る作業は痛みを伴いますが、自分の強みや弱み、個性の源泉に気付けるチャンスにもなります。
④サッカーと安定の中高時代
幼少期と同じくらい、落ち着いた時期でした。
サッカーのおかげで、スポーツを通じて自然と人に交流できたのです。
中高ともレギュラーになれたり、なれなかったり。境界線を行き来しながらですが、それでもサッカーを楽しんでいました。
高校時代は、成績も長距離走も学年で10番以内。
まずまず優秀くん(ウゼェ)
得意な科目は「社会(歴史)」と「国語(古文)」と超文系。
社会人になってからは、得意な古文は、何の役にも立っていませんw
いずれにせよ、楽しい時期 Take2を過ごすことができました。
⑤ゴルフに捧げた大学生活
大学では好きだった歴史を学ぼうとしましたが、
「就職先に困る」と周囲に反対され、有名私立の経済学部を選択。
そして大学で「何をやろうかな」と考えました。
サッカーは大分やったからな・・・
そのとき父親が見ていたゴルフ番組で、プロゴルファーが「シュパーン!」とボールを打つ姿を目撃。
「お。簡単そうだな」と感じたんです。
ゴルフならマイナーそうだし…「大学から始めても、ワンチャン全国大会までいけるんじゃないか?」と興味をもちました。
そしてゴルフ部の新歓コンパに顔を出すと、「お金は大丈夫!」「絶対うまくなれるから」と先輩に乗せられ、入部を決意。
ところが、甘い言葉はすぐにウソだと悟りました(気づけよ)
ボールが止まっているのに空振りする(ムズイ)
力みすぎて手の豆がつぶれて血まみれ(イタイ)
お金のために、土日はキャディのバイト漬け(楽しかったけど)
周りの先輩はお金持ちが多く、外車を乗り回していました。
「話しと全然違うぞ・・」と思いつつ、すぐにやめるのもカッコ悪い。
我流で練習をしましたが、まったく成長しない。
打つ=ミスる。打つ=ミスる。打つ=凹む。
そして半年が過ぎたころ。
女性の先輩から、魔貫光殺法をくらいます。
「君とは(下手すぎて)一緒に回りたくない」
ちょっとカワイイ先輩で、ショックでした。
ただこの一言で「このままじゃアカン」と危機感が芽生え、人に学ぶ決意をします。
卒業までお世話になるコーチに入門しました。
「とんでもなくヘタな奴が来たな・・・」
これがコーチの私に対する第一印象です(卒業前に笑いながら教えてくれました)
コーチからの指導「基礎・基礎・基礎」でした。
変なスイングを矯正するため、コツコツと地味な練習が3ヶ月続きます。
悪習慣は、心も体も簡単には抜けないものですね。
ただ基礎をやり直したおかげで、ほんの少し上手くなりました。
コーチがほめて伸ばすタイプだったこともあり、練習も楽しくなる。そして周りがドン引きするくらい練習に打ち込み始めます。
お正月もGWも関係なく練習。
毎日400球から500球打ち込む。
土日はキャディバイトをした後に、練習ラウンド。
日本の上位1%に入るほど練習した自負があります。
成果も少しずつ出てきました。
1回生では練習しても100を切れなかった。
2回生では90台に改善。
3回生では80台が出る。
4回生では70台が出せるように。
このときの学びは仕事やXの発信でも生きています。
「基礎を間違えると上手くならない」
「センスがなくても練習量でカバーできる」
「楽しいことなら無限に続けることができる」
ただ目標であった全国大会出場は力及ばず。
それでも試合で全国クラスの強豪とも互角に戦えたケースもあり、「やればできる」と自信を深めることができました。
<ポイント>
ほとんどのことは真剣に打ち込めば、上位10%に入ることは出来ます。
「苦手」や「できない」が言い訳になっていないか、気を付けるようになりました。
⑥生意気を極めた就職活動
「人生=ゴルフ」と言っても過言ではない大学生活を送りましたが、学校の単位だけは抜け目なく取っていました。
4年生になると、就活モードに突入。
「働くならモノを作る会社がいいな」と考え、製造業に狙いを絞ります。
就職活動をした2004年は、日本のモノづくりがまだまだ強かった。
自動車に鉄鋼。パソコン・デジカメ。携帯電話。テレビにウォークマン。
純粋に面白そうだな、と思ったんですね。
面接で「ゴルフできます!」と伝えると、何社か一次面接を突破。
そして志望企業の最終面接の前日。別の企業から運命を分ける、一本の電話がありました。
人事「おめでとうございます。内定です」
自分「ありがとうございます」
人事「内定を受諾してくれますか?」
自分「他社の面接もあるので、少し考えます」
そして次の日。希望する会社の最終面接で、こう尋ねられました。
面接官「内定をもらっている企業はありますか?」
自分 「はい。〇〇社から昨日内定が出ました」
面接官「ここで『内定です』といったら、ウチに来てくれますか?」
自分 「いえ。〇〇社さんと比較するので、ここでは決められません」
先方の人事さんは、かなりムッとされていました。
と言うのも本命企業は、前日に内定をくれた企業の20倍は大きい。
「はい!喜んで」を期待していたのでしょう。
けっきょく最終面接でアウトw
一刻も早く就活を終えて、ゴルフに集中したかった私は、最初に内定をくれた部品メーカーに就職します。
そして親元(関西)を離れ、いよいよ社会人として旅立ちます。
余談ですが、大学生で強く感じたことがあります。
それは
「政府や銀行に文句ばかり言う大人、マジダセェ」
「あんな大人はならん!」と胸に誓い、社会人になりました。
<ポイント>
入社して数年後、高卒で銀行の支店長まで上り詰めた父から「お前は良い会社に入った」と言われました。
私が選んだ企業は本命よりも小さかったものの、かなり良い企業だと父は知っていたようです。本命企業の面接前日に内定の連絡があったこと。そして翌日の言動が変わり、18年務める企業との「ご縁」ができました。
「人生万事塞翁が馬🏇」
今日の選択がどのように影響するかは、後々にならないと分かりません。
⑦ポンコツ全開!20代で地方に左遷
就職活動中は人事部門を希望したけど、営業配属。
地元の関西で働くと思ったら、初赴任は名古屋。
しっくりこないまま、赴任地に赴き、仕事を開始しました。(お仕事だから仕方ない)
最初は研修で事務作業から始めました。
とにかく仕事が出来なくて大苦戦。ミスを繰り返しては居残るはめになり、職場では「仕事の錬金術師」というあだ名がつきました。
「自分でミスって仕事を増やし、残業する」という意味ですね(涙)
たった2か月で、かなり精神的に追い詰められ、
「マジ会社辞めたい」と思ったことを鮮明に覚えています💦
でもミスばっかりしているのにお給料もらえて、「ありがたい〜」とも感じていました。
新入社員のころのポンコツエピソード1
さいわい上司や先輩に恵まれ、何とか独り立ち。
最初の担当は社内でも有名な「厳しいお客様」
見積もりの希望納期は「明日」が標準。
たまに夕方の6時に「今日中に見積り!」と依頼。
見積もりを出すと「値下げして」と突っ返される。
社内に相談すると「出来ません」と即却下。
20代前半でポンコツだった私は、仕事が回らず残業の沼にハマりました。
朝7時に会社にきて、終わるのは夜10時。
夕食は吉野家で、牛丼、味噌汁、コールスロー。
休日に無断出勤して部長と遭遇(当時はあるある)
ただゴルフと同様、根性で耐えていると、徐々に仕事力も改善し、評価されるようになりました。
当時は「長く働ける奴がエライ」という風潮があったんですね。
20代のポンコツエピソード2
そして20代半ばで高評価をゲット。同期より一足先に昇格します。
同時に妻と結婚。相変わらずドタバタしていたものの、「一人前になった!」との記憶がありました。
結婚を機に残業を減らす方もいますが、私は残業が多いと妻も知っており、9時過ぎに返ると「今日早いね」と言われるくらいでした。
生活スタイルは変わらず、仕事に追われる日々。
ただ5年も働くと、流石に仕事に慣れてきます。
そして自分の悪い癖で、一度目の大きな失敗をやらかします。
「同期より一足先に昇格したし、これで安心だ」
「仕事も慣れてきたし、ぼちぼちやればいい」
そう。20代で「現状維持」モードに突入しました。
当然、周りの同世代は頑張っています。あっという間に評価は下がり、追い抜かれました。
一度ペースを落としてしまうと、なかなかリズムを取り戻せない。。
そして29歳のとき、上司に呼び出されます。
「地方の営業所に異動してもらう」
30を前にして左遷が決まったのでした。
<ポイント>
20代で失敗した理由は「何となく生きていたこと」に尽きます。
すこし評価が良くなると、すぐ手を抜いてしまいました。人生の目的・目標が明確なら、浮かれることは無かったはず。
「人は自分に甘い」と肝に銘じて、目標を持つ大切さを痛感しました。
⑧30代で仕事に覚醒。人生大逆転!?
異動した地方の営業所では、当然ながらこじんまりした職場でした。
お客様もおっとりしていて、職場の規模も10名ほどで家族みたい。
外回りの営業職としては自分が一番の若手で、後はおじさんが2人いるだけ。
営業所で一番大きな顧客を引継ぎ、仕事を開始。
ところが商談が中々うまくいかない。
上司からは「何かが足りない」とダメだし。
同期からは「あいつ終わった」憐れまれる。
いい意味で自分の危機感に火がつきました。
そして上司の一言をバネに工夫を凝らすうちに、
営業のコツを掴み、大型案件をとることに成功。
一気に「アイツやるな」と評価が上がりました。
左遷されて苦しんでいた時~挽回までのポスト。
人間は現金なもの。成果が出て評価に繋がると仕事が楽しくなり、弾むように働きました。
朝の5時から会社にいき、夜遅くまで働く。
仕事が楽しくて「もっと働きたい!」と休みの日もそわそわ。
今でいう「セルフブラック」ですが、営業マンとして成長した時期でもありました。
働き過ぎてめっちゃ怒られたときのポスト。
いろいろ問題は起こしつつも、成果を積み重ねる。
そして34歳の時にシンガポールへの赴任がきまり、自分でも「人生逆転したぞ!」と感じながら、日本を飛び出すことが決まりました。
<ポイント>
私は「残業反対派」ですが、例外があります。
それは
「若いうちに期間限定で、仕事にガチる」
このパターンは、間違いなく人生の選択肢の一つ。
ただあくまで「自分で選んだこと」「期間は限定」がポイント。
趣味や学びなど、仕事以外でも「夢中」は作れます。選択肢を広く持って、決めることが大切だと痛感しました。
➈夢の海外赴任で陥ったワナ
30代の半ばで赴任したシンガポールは、住むには最高の場所でした。
気候も穏やかで、何より安全。
住む環境はまったく困りませんでしたが、やはり苦戦したのは言語。
上司も同僚も部下もみんな外国人の中、会議でも何を話しているかわからない。
このことを「赤ちゃんの気持ち」と呼んでいます。
「君はこの件、どう思う?(同僚)」
「…ごめん。もう一回説明してほしい(自分)」
「…聞きたいことはね…(同僚)」
毎日歯がゆい思いをし続けました。
さいわい、同業はみんないい人で、粘り強くコミュニケーションを取ってくれました。
シンガポールは他民族の国で「言葉が通じない」は普通なんですね。
上司に「言葉が分からなくて・・」と相談したこともあります。
ただ「大丈夫。耳慣れするから」。それだけでした。結果としてこれは事実でした。
疑心暗鬼のまま半年、英語のシャワーを浴び続けました。すると突然、英語が聞き取れるようになったんです。
人間の順応力を改めて感じました。
半年の間、英語のシャワーを浴び続ければ、99%の人は話せるようになります。身をもって学んだ豆知識でした。
<ポイント>
環境の力は大きいです。語学だけではありません。
レベルが高い人たちに囲まれれば、自分も引っ張られる。逆に悪口と不満ばかりの場所にいれば、自分も同じようになる。
英語が話したいなら、英語が話せる人のところへ。
成長したいなら自分よりレベルが高い人たちがいる環境へ。
環境のちからを使えば、何歳からでも変わることができると感じました。
さて、仕事の話にもどります。
海外での自分の役割は「管理職」でした。当然部下が付きます。
初めての管理職は「大変」の一言。
赴任してから1か月で唯一の部下が退職。
その後も定期的に部下が辞めていきます。
3年半の赴任期間、ずっと採用活動をしました(涙)
海外では転職が当たり前。
人間関係が原因で辞める人はかなり少ない。
より良い年収やキャリアが叶う職場に転職します。
そして転職した後も、皆が繋がって普通にやり取りをしています。
「一つの職場で働くのが当たり前」
自分のマインドブロックが、ガラガラと音を立ててくずれました。
この体験が自分が発信する一つの軸になりました。
<ポイント>
日本でも転職事情は変わりました。今は多くの選択肢があります。
嫌な仕事にしがみつくなら、人生を豊かにするために、転職を視野に入れてほしいです。
シンガポール時代のポスト。
さて。こんな環境で海外赴任を始めた私に、変化が訪れます。
まずは急な訃報による欠員発生。急に大きな部門を任されました。
部下が1人から7人へ。
担当顧客は1社から30社へ。
担当国も一気にASEANの6か国へ。
上層部としては、私に任せるしかなく、苦渋の決断だったようです。
最初はガムシャラに仕事をしていましたが、半年もすると慣れてきました。
そして役職もあがり、部下も増えると「これが自分の実力だ」と勘違いして、気が緩んだのです。
「よし、これで安心だ!(バカ)」
20代の反省を活かせませんでした。結果として、30代で躓く要因になりました。
シンガポールでの失敗をまとめたポスト。
もう一つの大きな失敗は、マネージャーとしての能力不足です。
当時の私が考えたリーダー像はこんな感じでした。
「部下が困ったらすぐに助けないと」
「自分が率先して、動く背中を見せるんだ」
「自分のやり方を部下に覚えてもらうのが教育だ」
今見ると大反省です。
ときにこういった考えも必要ですが、マネージャーはチームメンバーを通じて成果を出す立場。
マネジメントの基礎が出来ていない中、私は結果が出せずに悩みます。
赴任してすぐに行けた昇格試験も落選。
「どうしよう・・」と悩むものの、解決策が見えない。赴任当時の相性が良かった上司は日本に帰り、後任の上司とは相性がイマイチでした。
よく怒られていたため、相談も中々できず、悪循環にハマります。
当時の心境がこれ。本当にメール一本が辛かった。
同期も退職したこともあり、「俺も会社を辞めようかな・・」と考え始めたとき。日本に帰任が決まりました。
海外の役職は「副部長」。日本の帰任時は「主任」
井の中の蛙、大海に飲み込まれる。
まさに自分の知識と経験、そして努力不足から起きたことでした。
⑩夢破れて帰国。アラフォーの現実。
大降格の末に帰国した私は、10人ほどのチームリーダーに任命されます。
リーダーでも10人くらい部下がいます(ムリw)
着任した職場の印象は「暗いな‥」と感じました。
メンバーと面談をしても、出るのは愚痴ばかり。
「仕事が楽しくない」
「昔の方が働き甲斐があった」
「私はいる意味があるんでしょうか?」
その中で特に様子のおかしい若手の女性が一人。すごく優秀だし、いつも笑顔で頑張っているのに、目が笑っていない。
赴任して1週間。一緒に残業をして気付きました。
そう。彼女は仕事が回らず「サービス残業」をしていたんです。
とにかく仕事を止めようとせず、感覚が麻痺していました。
そのときのポストがこれ。
さいわい、すぐに業務を減らして、3ヶ月くらいで
普通に帰るようになりましたが‥「残業って怖いな・・」としみじみ感じました。
ただ白状をすると、私自身も彼女と同じくらい残業していました。
昼休みもほどほどに、朝から晩まで働く。
帰る時間は9時過ぎがデフォルト。
仕事が終わらないと、家に持ち帰る。
残業で壊れかけた彼女と、残業が習慣化してしまった自分。
今考えると、どちらも異常ですが…当時の私は自分の異常には気づけませんでした。
そして帰任後の1年くらいはのびのび働きましたが、2年目から暗雲が立ち込めます。
そう、帰任後の上司とも関係が悪化したのです。
上司はでびしっと睨みを聴かせたい北風タイプ。
私は部下にきつく言えないぬるま湯タイプ。
「もっと細かく指導しなさい」
「彼はミスをする前提で指導しろ」
「できないときは厳しく叱るのも必要だ」
客観的には「確かに」と思う面もありました。
でも自分には一番苦手な指導法でした。結果として、上司と部下の板ばさみになります。
自分の違和感があるやり方を、無理やり部下に伝えるのが、ストレスになりました。
シンガポール時代のように、再び仕事に悩みます。
上司からの叱責がつらい。
仕事に行くのがゆううつ。
周りの同世代が、自分より優秀に感じる。
当時の心境を綴ったポストがコレ。
「このままだと潰れるかも‥」と感じ始めました。
そんなとき。友人の一言で運命が動きました。
彼とWeb飲みをしていたときに、何気なく
「上司との関係がきつくてさ・・」と愚痴ったら、こう返されたんです。
「とりあえずビズリーチ、登録したら?」
転職、転職、転職‥
新卒で入社して17年。シンガポール時代に一度は転職を考えたものの、具体的なアクションは何一つ取っていませんでした。
そして友人がさらに言葉を重ねます。
「登録して、いい条件が無ければ残ればいいやん」
「今の想定年収が知れるだけでも、参考になるで」
そうか・・そんなものか。
それまでは「転職をすると決めたら、転職サイトに登録する」と思い込んでいましたが、ガラガラと思い込みが崩れました。
その場でビズリーチに登録。
すると驚くことに、登録しただけで心が軽くなったんですね。
今までは「今の会社で頑張らねば」「上司に認められないと」「部下には好かれるべき」と、選択肢がない思考回路しかなかった。
それが「いざとなれば転職すればいい」。
選択肢が増えたんです。
「心の余裕=選択肢の広さ」だと理解できました。
⑪「辞めてやる!」退職を決めた瞬間
ビズリーチに登録してから3ヶ月ほど。本格的な転職活動はしていませんでした。
企業の人事担当やエージェントさんと何回かZOOMをして、少し話を聴いたくらい。
そして夏の暑い日にまたも運命の歯車が回ります。
管理職とリーダーが集まる会議で、上司の発言を聞いたときに、プチンと糸が切れたんです。
『彼(まひろ)に色々と仕事を任せたが「僕の思うように」動いてくれなかった』
皆の前で言われたことも悲しかったし、腹がたちましたが…何より引っかかったのは、この箇所でした。
「思うように動いてくれなかった」
この上司からは、常に「君の考えは?」と聞かれていました。
考える姿勢は大切ですし、私も部下に求めます。
ただ自分の中では「答えはない」「試行錯誤しながら、ゴールに近づけばいい」と考えて、上司に提案をしていたんです。
この噛み違いがあるから、上司もずっとイライラしていたのでしょう。
「こいつ、オレの答えを当ててこないな」と。
この時に沸き起こったのは、この気持ちでした。
「答えが決まってるなら、最初からいえよ」
「この人とはもう働けないな」
自分でも大人げないと思いつつも、いったん切れたこころの糸は戻らず。本格的に「ビズリーチ!」する決意を固めました。
<ポイント>
ひとたび感情がこじれると修復は難しいです。苦手だった上司は、私に悪意100%だったとは思いませんが、それでも感情的に許せませんでした。
①多様な価値観に触れて、自分の幅を広げる努力。
②合わない人とは距離を取る。
人間関係のトラブルを減らすには、①と②が大切だとしみじみ感じます。
⑫転職活動:自己分析って大変。
ビズリーチを登録すると、様々な企業の求人情報が見れます。
「どの企業にしよう・・?」と悩みつつ、自分の現状を振り返り、以下の転職軸を持って企業を探しました。
①挑戦できる企業(自分が成長したい)
②技術力があるモノづくり企業(製造業が好き)
③海外で働けるチャンスが欲しい。
その代わり、年収は10%ダウンまでOK。
この3つを転職軸にすると、一気に対象企業を絞ることができました。
最終的に3社に応募しました。
【一社目】製造系ベンチャーの営業
「面白そう!」と感じて自分から応募。
書類は通過しましたが、一次面接で「自己紹介を英語でやって」と言われ、しどろもどろに。
その後も、切れ味するどい質問が続きました。
「土日も含めて働けますか?」
「お金ではなく夢を糧に頑張れますか?」
けっきょく面接は通らず不合格。悔しい出だしになりました。
【2社目】外資系 自動車部品の営業
こちらはビズリーチ経由で企業から直接のオファーありました。
業務はそこまで惹かれないけど…外資系で働くことが挑戦になる!と考え、1次面接を申し入れます。
ただ結果として、この企業とは1次面接の日程が合いませんでした。そして③の企業で内定が決まったため、面接は取りやめ。
学生時代の就活に続き「ご縁が無かった」形でした。ただ業務に対するワクワクは少なかったため、「お互いに良かった」と感じています。
③日経大手企業の営業企画
最終的にご縁があったのは、こちらの企業でした。
きっかけはエージェントから「興味はありませんか?」と連絡。内容を確認すると、「海外拠点サポート」「営業企画職」「新規事業」。新しい領域も多く、「面白そうだな」と感じました。
デメリットは地方企業で引っ越しが不可欠。そして「日系大手は細かいし面倒が多い…」とわかること。
ただ新卒から働いていた会社(前職)も、その企業(現職)も技術にこだわりを持つ姿勢に、親近感を感じたため、応募を決意。
このときに対応してくれたエージェントさんは「当たり」。具体的なアドバイスをくれたんです。
「1次面接が難関で、ここを通ればほぼ内定です」「飾らずに素直に気持ちを話した方がよいです」「考えがまとまえらないときは『時間をください』と伝えてOKです」
さらに面接官の性格までアドバイスをくれました。
それでも一次面接は大苦戦します。
とにかく「なぜ?」を良く聞かれる面談でした。
「新規事業に挑戦したいです」→「なぜ?」
「上司との関係に悩んでいました」→「なぜ?」
「海外でもう一度働きたいです」→「なぜ?」
途中で「うーん」となり、「考えていいですか?」と待たせることもしばしば。
途中から「これで大丈夫か?」と思いつつも、とにかくエージェントさんのアドバイス通り、なるべく素直に伝えました。
そして最後に
「もう一度挑戦したいんだね」
「うちに魅力を感じてくれたことも分かりました」
と言われ、面接は終了。
想像していた面談ではなく、俗にいう「コーチング」に近い感触でしたが、結果として1次は合格。
その後、エージェントから1次面接のFBがあり、
「『正直そうで、ウチに合いそうだ』と思ったそうです」と教えてもらいました。エージェントさんのアドバイス通りでした。
【ポイント】
エージェントさんもピンキリ。「具体的な情報を持っており、信用できるな」と思ったら、アドバイスを素直に聞くのがおススメです。
そして2次面接は突っ込んだ質問も少なく終了。
ただ「地方への引っ越しは問題ないですか?」と、念押しされたのを覚えています(地方は、内定をだしても断る人が多いらしい)
いよいよ退職に踏み切ることになりました。
⑬転職活動の苦労
「スムーズに転職したんだな」と感じるかもしれませんが、当時の私には「働きながらの転職活動」は大変な作業でした。
残業も多く、自分の業務と部下のサポートをしながら、コッソリ転職活動を続ける。
急に早く帰ると同僚に怪しまれる。面接の日程調整が、重要な会議や商談と重なることもしばしば。スキマを縫うように調整を進める日々。
さいわい在宅勤務が使えたため、多少は融通が利きましたが…それでも「転職活動、大変や・・」と思いつつ、歯を食いしばって対応しました。
家族への対応も必要です。
妻には「転職活動するよ」と伝えたものの、子供たちにはしばらく伏せていました。
家でも職場でもこっそりと転職活動。「隠し事をしている感」は強く、ストレスは大きかったです。
そして内定をもらうと、次は違うストレスが待っていました。
「会社にいつ、どうやって報告しよう・・・」
直属の上司は苦手で気が重い。
部下や同僚にも迷惑をかける。
とはいえ内定の承諾を得た以上、伝えるしかない。
転職サイトには「金曜日の夕方がいい」と書いてあったため、別件で金曜の夕方に業務の会議をいれ、終了後に退職届を渡しました。
上司は一瞬驚いて「何か不満があったのか?」とは問いかけます。
不満が喉元まで出かけましたが「いえ。自分のために挑戦しようと考えました」とだけ伝えました。
あちらも百戦錬磨ですし、引き留めても無駄だとわかったのでしょう。私が上司に不満を持っていることは感じていたでしょうし。
強く引き留められることもなく、あっさりと面談は終了。引き留められなかった安堵と、寂しさが半々でした。
【ポイント】
「感情をぶつけなくてよかった」と強く感じます。「どうせ辞めるから」と不満をぶつける人もいますが…自分のためにも、前向きな姿勢で去る努力を心がけたいと痛感しました。
上司に退職を告げてからは、また3つの違ったつらさがありました。
①退職前提の仕事の応対
事情を知らない人に、断ることが増えたのはツラかったです。中途半端に引き受けると迷惑になる。心を鬼にして対応しました。
②会社を去る不安との戦い。
「周りの人がよそよそしくなった」と感じる時期がありました。
耐えきれずに職場の同期には「退職する」と伝えました。ただトラブルに繋がる可能性もあり、注意が必要です。
③相談がしづらくなる
上司はドライになります。「いなくなる人」より「残るメンバー」に手厚くなるのは仕方ない。こころの準備はしておいた方がよいです。
転職前後の孤独を綴ったポスト。
ちなみに退職願いを出してから退職日までは2ヶ月半でした。
上司に退職を告げたのは2022年の10月半ば。
退職が職場でオープンになったのは11月末。
そして最終出社日が12月末。
引継ぎを行うなら退職まで2-3ヶ月は欲しいです。
退職が発表されたときは、「まさかあの人が・・」と多くの方が驚かれました。「誰よりも楽しそうに見えたのに」とコメントをもらったこともあります。
露骨によそよそしくなる人もいて、寂しい思いも経験しました。
ただそんな中、嬉しいこともいくつかありました。
①多くの「人の優しさ」に触れた
コロナ下だったため、少人数の送別会を10回以上企画してくれた。またお客様にも送別会をしてもらい、人の温かさが身に沁みた。
②部下の成長を感じた。
ある部下が「今までありがとうございました。これからは自分でしっかり頑張ります」と伝えてくれました。業務の負担が増える中、不安もあったはず…それでも力強い言葉を返してくれたことは救いにもなり、部下の成長を感じた瞬間でした。
<ポイント>
アラフォーの転職活動は、心身共に大変でした。それでも乗り切れたのは「3つの準備」のおかげです。
①ビズリーチ(転職サイト)の登録。
事前に転職サイトに登録するだけでも、行動はスムーズになる。
②「カジュアル面談」の経験
カジュアル面談:「ちょっと話しませんか?」という軽めの面談。ビズリーチに登録すると、たまにオファーが来ることも。
転職活動では自分が評価されます。とても不安ですが、カジュアル面談を行ったことで「企業は自分をどのように見ているのか?」把握できていたのは、安心材料になりました。
③不安を乗り越えるマインド。
40代の転職で一番の課題は「不安」「恐れ」です。
「今更転職しても通じるのかな・・」と思ってしまいますよね。
さいわい、私はスマホの耳学アプリ「Voicy」に出会い、毎日15分から30分、通勤中に前向きな情報をインプットしていました(継続中)
「人は聞いた言葉で出来ている」
40代から挑戦する勇気をもらうには、耳学によるインプットはぜひ試して欲しいです。
毎朝Voicyを聞いている一人、鴨頭 嘉人さんです。
さて、本編に話を戻します。
最終出社日から、新しい職場まで有休を20日ほど消化しました。
ただ引っ越しを伴う転職だったため、のんびりした記憶はありませんw
住んでいた場所の大家さん優しい方で、親切な対応をしてくれたことがこころに残っています。
大家さんの神対応のポスト。
そしてドタバタと引っ越しを終え、新しい職場に出社しました。
⑭40歳からの転職/仕事編
40代の転職って不安ですよね?
私もめちゃくちゃ不安でした。
「どんな人たちだろう?」
「仕事は慣れるだろうか?」
こんなことばかり考えていました(💦)
ただ結論としては「大変だけど何とかなる」。
職場には良い人も嫌な人もいる(どこも同じ)
仕事は脳が沸騰するけど慣れてくる。
やはり最初の「3か月」はしんどかったです。
逆に言えば「3ヶ月を」越えれば軌道に乗ります。
40代の転職で、3ヶ月を乗り切るコツをいくつも
ポストに上げています。ぜひフォローして確認してください💡
その中でも厳選ポストを3つ紹介します。
①出社初日の心構え
②40代の転職 こころ構え1
②40代の転職 気付き
ただ誤解を招いたら申し訳ありません。
書いてあること、パーフェクトにやらなくていいです。
私自身も書いた事を「すべて出来ていません」w
半分は反省点からきた内容です💦
もう一度いいます。パーフェクトでなくていい。
でも一つでも心がけると、難所をのりきる助けになってくれます。
私も転職してすぐは脳が沸騰しましたが、やさしい後輩たちに聞きまくるうちに「あれ?まだ入社して3ヶ月だっけ?」と言われるくらい、バリバリ働いておりました。
<ポイント>
最初の3か月はやはり難所。
心身を整えて「慣れる」ことが大切です。
できないことは当たり前。
プライドを捨てて謙虚に教われば、かならず乗り切ることができます。
⑮40歳からの転職/プライベート編
実はこのパートが、このnoteのハイライトです。
転職してからの1年で起きたプライベートの変化は、
「新卒からの18年に匹敵する」濃さがありました。
少し長いですがお楽しみくださいね。
まず最初に。
40代で転職をして気付いたことがあります。
転職をしてまず一番に考えることは、「人生をどうするか?」でした。
「イヤイヤ、まず仕事だろ!」と思いますよね。
でも考えるべきは、まず「人生をどうするか?」だと気付いたんです。
30代まで社畜だった私は「仕事≒人生」でした。
でも今は違います。
「趣味」「家族」「学び」「友人」「健康」
「仕事」もがんばるけど「人生」が優先です。
私の考え方が180度が変わり、社畜マインドを
打ち砕いてくれた方が2人います。
一人は先ほどご紹介した鴨頭 嘉人さん。
30代後半に「2回連続」で上司と揉めた経験から、鴨頭さんのセミナー「コミュニケーションの学校」に入って、人との接し方を学びました。
そこで耳慣れない言葉をしりました。
「888戦略」
何のこっちゃ?ですよねw
これは1日を3等分して「仕事」「睡眠」「自分の時間」を、8時間ずつ取ろう!という考え方です。
「一番時間が作りやすいのは会社員だ」
8時間の自分時間ってヤバいです。8時間ですよ!
「いやいや・・そんな簡単には」と思いつつも、「888戦略」は胸にぶっ刺さりました。
そして残業を止めるきっかけになったもう一方は、
X/Twitterのインフルエンサー いれぶんさんです。
ご存じの方も多いと思いますが、Xで11.5万人のフォロワーさんがいるすごい方。
ただ私は40歳まで全くXを触っておらず、いれぶんさんのVoicyが好きで、お名前を知っていました。
そしてひょんなことから、転職して1週間の私は、いれぶんさんにVoicyで仕事の悩みを相談します。
発端は転職先の上司との面談でした。
「君に課の雰囲気を変えてほしい」
「目標が達成できるチームにしてほしい」
「え、マジっすかΣ(゚Д゚)」
実は転職先の上司も転職組で、悩んでいたのです。
そして中堅が(私)が加入し、期待してくれたのですね。ありがたや。
ただ転職して1週間の私は悩みました。
新しい会社のことは、分からないことだらけ…
でもせっかく転職した以上、会社に貢献したいし、
上司の期待にも応えたい🔥
具体的にどうしたのものか?悩んだときに思い出しました。
「いれぶんさんのVoicy、人生相談ができたな」
そう!いれぶんさんのVoicyでは相談ができます。
(*プレミアムVoicy限定です)
「他に相談できる人もいない・・」
「役に立つアドバイスがもらえるのでは‥」
と考え、すがる思いで質問をしました。
そのときにVoicyで質問した放送です(有料)
心のこもったアドバイスを頂き、悩みが
スッと軽くなったことを、今でも覚えています。
そして相談の最後に「衝撃の一言」を頂きました
「あなたが経験をSNSで発信すると、社会にいる人たちを救えますよ」
「え、マジっすかΣ(゚Д゚)」(多いな)
仕事の相談をして、まさかの一言。
発信なんて一部のキラキラした人がやるもの。
自分の思い込みが、ガラガラと崩れました。
そして2か月後。転職直後もかかわらず、
「いれぶん塾」に入り、Xの発信を始めました。
一度気になるとダメですねw
そしていれぶん塾では、皆さんが「朝活」「早寝早起き」「時間の余裕」を合言葉に活動しています。
私は「まずい‥」と思いました。
今は試用期間だから残業できないけど・・
めっちゃ残業するつもりだった・・・
そして自分の中で決意を固めます
「残業をスパッと止めよう」
30代後半で人生に行き詰まった。
残業も含めて習慣を変えないと社畜に逆戻りだ💦
でもどうやって残業を辞めようか‥
ん?今は定時で帰れているじゃないか。
試用期間とはいえ、無理なく帰れている。
ならば‥
「毎日が試用期間(残業NG)と思い込もう」と決断しました!
「こいつアホか?」と思われたそこのあなた。
はい、アホですw
でもこれ、自分には大切なことだったんです。
脱・残業のコツは、「視線」を振り切ること。
「お前もそろそろ残業するんだよな」
「ようやく私たち(残業組)の仲間ですね」
こういった熱いまなざしを断ち切るために、
ぼくは「思い込み」の力をつかいました。
「自分は残業できない」と思い込んで、
リズムを変えずに帰り続けました。
すると少しずつ変化が起きます。
1週間「どうせそのうち残業するでしょ」
2週間「ふーん・・まだ粘ってるんだ」
3週間「…マジで残業しないらしい」
3週間がすぎると、完全に雰囲気が変わりました。
周りの人から「残業しない人」と認定されると、
同僚も自然と配慮してくれます。
「定時後の会議は呼ばない方がいい」
「早く帰るのは信念なんだな(思い込みです)」
もちろん苦々しい目で見る人も出ます。
「あいつ・・さぼりやがって」と。
でも応援してくれる人も出てきます。
「残業なしですごい。楽しそう」
ほとんどの人は「定時で帰りたい」と思っている。
実行する人は一目置かれるんだと分かりました。
そして思い込み以外にも3つの点を心がけました。
①即レス・後回し禁止・悩んだら相談。
②チーム全体の仕事にも気を配ること。
③困っている人が居たら手伝うこと。
40代で転職して「自分の事しかやりません」では、もちろん嫌われます。
2割の人からは嫌われてもいいですが、8割から嫌われると働きづらいので、気を付けたいですね。
そして残業を辞めるには「理由」の把握が大切。
改善に向けたアクションが変わるからです。
①職場全体が残業体質か、個人の問題か?
→ブラックなら転職一択。
②周りの人は早く帰れているか?
→早く帰れているなら、工夫次第の可能性。
もし全員の帰りが遅いなら危険信号。
③チームの中で適切な業務分担か?
→「親切な人」に押し付けられていないか?
他にも「残業代」や「成長したい」なども考えられますが、それぞれ対応が異なるんですね。
残業を減らす方法の詳細は、また春にnoteを書く予定です。ぜひ楽しみにしてください。
そして残業をやめると世界が変わりました。
会社帰りには川べりのベンチに座って15分します。
ラジオを聴きながらアイスを食べてのんびり。
(冬でもアイスを食べています)
その後に家に帰っても、まだ6時台(極楽)
朝は2時間、夜も4時間の余裕ができました。
この時間を使って新たな活動を始めます。
Xの発信。子供と遊ぶ。講演会やセミナーの参加。
図書館にいく。平日に映画。お茶を習い始める。
「時間があれば、人生がこんなに変わるんだ」
としみじみ感じました。
そして「もっと早く帰りたい」という欲求から、
仕事にもいい影響が出ます。
仕事を早く終えたい。
メールは即レスが基本。悩んだらすぐに相談。
新しい時短術や知識に興味を取り入れる。
仕事は完璧主義をやめ、前に進めることを優先。
「仕事は早くなり、思考力も格段にあがりました。
「自分は今までダラダラ働いていたんだ・・」
人は「目的」と「制約」があるからこそ成長する。
今はこのように考えています。
気付いたきっかけは「残業」をやめるべく「時間」を作るために努力したこと。
全ての起点はここでした。
<ポイント>
人生の豊かさを上げるなら時間の確保は必須です。
定時で帰ることで、行動や体験が増やせます。
【40代からの夢。まひろ20年計画】
さて、白状します。
40代で転職をして残業なし。人生バラ色そうに
見えますが、課題は山積みです。
一つはお金!
残業を止めて残業代が無くなった!(アタリマエ)
転職して部下が外れたことで▲100万。
さらに残業を止めたことで▲100万。
転職した初年度は
「転職で収入減」+「行動が増えて支出増」=真っ赤か🔥
家計には大インパクトです💦
ウヒャー💦な実感はこちら。
先ほど言いましたが「制約」は人を強くします。
今さらお金のために残業する気にはなれません!
定時で帰って川沿いでアイス食べたい(コラ)
ここ数か月「残業に頼らず」「どうお金をやりくりするか」真剣に考えています。
「削れる支出はないか?」
「コンビニよりスーパーで買おう」
「新NISAはやったほうがよさそうだ」
以前は興味が湧かなかったお金関係にも、意識が向くようになりました。
「お金は汚い」という方もいらっしゃいます。
でも私は「お金と向き合おう」と決めました。
たまにゴルフもしたいし、年一回くらいはちょっといいホテルにステイしたい!人間だもの!
そしてこの後に書く自分の夢をかなえるためには、お金が必要だからです。
お金に関するテーマも「残業をぶった切る」ために
織り交ぜていこうと思います。
とても大切なことです。
稼がないと生きていけませんから(;^ω^)
それに転職してたった1年のプライベートがこんなに長いとは・・(文章なげぇよ!/スイマセン)
それだけ自分にインパクトがあった1年でした。
ただのサラリーマンでも人生は変わる。
30代で諦めかけていた1自分に、伝えたい言葉です。
ここまで読んでいただいた方にも、何かの気付きになればうれしいです。
<ポイント>
「環境」「習慣」を変えれば人生は変わる。
時間の余裕に加えてお金もやっぱり大切。
制約がある中で動くからこそ、人は磨かれます。
⑮40代からの夢。残業のない世界の先へ。
実は今、大きな野望を持っています。
「日本の残業をぶった切る!!」
私は会社員として、「楽しい」と「苦しい」を
両方とも経験しました。
上手くいくたびにサボり、遠回りを繰り返した。
でも「残業」から解き放たれれば世界は変わる。
仕事で悩む会社員が一人でも減って欲しい。
日本の会社員に笑顔が戻ってほしい。
自分の経験が、誰かの役に立てばうれしい。
そんな想いがあります。
このためには発信力が必要です。
昨年の12月に「24年6月に万垢達成をする」と宣言しました。
現在のフォロワーさんは1500名と少し。
まだまだ道は遠いです(マジ)
覚悟を決めてやり切ることにしました。何者でもない自分は、覚悟しかない🔥
そしてもう一つ決めたこと。
それは「自分も人生や仕事を楽しむ」。
自分自身が元気じゃないのに、人を元気にする
発信など、できっこありませんよね💦
自分がワクワクする目標も設定します。
【本業の目標】
①残業しない管理職になる。
②アメリカに海外赴任する。
③メンバーとイキイキ働けるチームを作る。
過去の失敗を活かして、もう一度挑戦したい。
仕事に溺れるのではなく、仕事に向き合う。
若手から「残業しない管理職、スゲー!」と褒めてもらいたい!(コラ!)
でもそんな上司がいると、希望になりそうで、ワクワクしますよね。
【プライベートの目標】
①挑戦する仲間を応援する。
②友人と一緒に、世界のゴルフ場をめぐる。
③副業で「やりたい事」を実現するために稼ぐ。
そのために残業をしないスタイルも貫きます。
「時間」がないと何もできないので。
Xの発信を通じて「自分のやりたい」と「人の役にたつ」を両立する。欲張りに活動をしていきます。
⑯最後までお読みいただいたあなたへ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
優しいあなたへ、3つのお願いがあります(多いな!)
頂いた引用ポストは、読んだ上で全てコメントをお返しさせていただきます。
最後にこのnoteを事前に添削いただいた、いれぶんさん、かのかのさん、あふろんさん、もっちゃん、さわへんさん、こんちゃさん、ありがとうございました!
初めてのnoteで至らぬ内容がありましたが、読んでいただいた皆さまに、改めまして御礼申し上げます。何かの気付きが届きますよう✨
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