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私は役に立てない人間なのか。#2

#1では、20代の生き方を振り返ってみた私の想いを書いてみた。何にも考えず、ただひたすらに駆け回っていたので、自分のことをじっくり思ったことはないために最終的に大きな挫折を経験してしまった。大きな挫折によって、描いていた夢への道が途絶えてしまい人生を大きく変えてしまうことに自分が勇気出来ずに苦しんできた。自殺を考えるほど、深刻な精神的苦痛に悩み続けている最後の20代と30代の始まりであった。

 結局、今もなお自分一人ではもうどうしようも出来ない、社会的な大きな腹立つ現状に強く正義で行動しようとしても無駄なんだと。自殺しても何にも出来ないんだと。周りの私をよく理解してくれる、先輩方や後輩、そして教え子まで。また一緒に活動してくれたきこえる人や全国の仲間たちの助言に助けられて、今を生きている。非常にろうコミュニティーの中で蓄えてきた姿勢の結果だろうと気づいた。

そしてYouTube活動を始めた。最初は非難の声もあった。当然ながら、周りの縁を切っていた2年間でいきなり、YouTubeで表に出た私である。SNS上ではもう関わりたくないという人を多く捨ててきたのに今更、声かけられても何と言えばいいのか。と思いつつ、何人かの声に少しずつ応じる勇気を取り戻している最中である。でも以前の私ではない。もう変わった私だということを知って欲しいと思っていても他人から見る私はもう過去の自分と重なっていて人間として信憑性が変わるのも仕方ないだろうなと覚悟している。

ある人は、私のことをデマで、間違っている情報を流して信頼を作らないようにしている。
ある人は、私のことを簡単に知らない人まで情報流した上で注意しようとしている。知らない人が私に対して不不信感から始めることもあった。
ある人は、私のことを前向きに切り替えて励ます、支えようとしつつ、厳しく態度を変えていくこともある。
ある人は、私のことを理解して、変わらぬ以前のままで接してくれることもある。小さなことでも連絡したことに反応してくれる。

というように人間として多様な接し方がある。私は、このそれぞれの接し方で以前の私だったら、気にせず前向きにオープン的に向き合っていた。でも残念ながら今の私は、以前と違って相手のことを留意しつつ、はっきりと厳しく見分けるように恐怖という気落ちで人間不信を抱えながら接している。そのため、言葉遣いがきつくなった。

 言葉遣いがきつくなったという変化に気付いてくれる人もいるが、これがなぜそうなったのかというのも背景を知っておけば、ある人はこの性格が今の私なんだと受け止めてくれる心大きい人であろうと感じている。だけど心大きい人というのはごく少数であって、はっきり言えば人間関係を築くというのは以前より厳しくなったと覚悟するべきである。

そんな私は、もう30代過ぎてしまった。周りの人は結婚、キャリアアップとして幅広く成長していることを見ていると、今の自分をどうしたら良いのかという人生における大きな悩みをもつように感じている。かつて同期だった人もキャリアアップし、学校運営のある業務を舵取っているという姿に自分はなぜこの違いがあるのかと。何かが足りない差に悔しい自分もいるのだ。

でも大きな挫折をしたことによって、逆に《社会的な学び》を得ている。この《社会的な学び》は、今の日本における大きな暗黙の知であって、誰一人として逃げたくなる。誰一人として真摯に向き合わず、棚上げして隠そうとするし自己保身のプライドにこだわって嘘をついて避けようとするんだ。という人間としての悪い例を多く感じた。私はこのような人間になりたくないと心に決めている。そのためには、何か必要か。それはやっぱり知識教養をしっかり身につけていることに自信を持つべきであろう。そして知識教養をしっかり活かせる環境で自分らしく働くことが何より、大事なことなんだと思っている。

 そんな時、友人からの紹介であるオンライン授業の某団体の方向性を聞いた。私は、この方向性に大きな希望を感じた。聾学校の教育現場では、出来ないことを実現できるものなんだと感じるともにたまたまコロナ禍で困っている児童生徒が多くいる。そんな児童生徒のために力になってあげたいという新しい希望の欲求が出てきた。こうしてオンライン授業を通して新しい教育業界へ仕事を始めたわけである。教育現場としては継続出来ていることに心の余裕が生まれるようになった。一方で、以前の職場より制限ない方向性そのものの将来を見据えた考え方が自分に合っているものであるので、やり甲斐を感じている幸せがある。

 聾学校の教育現場では出来ない一つの方向性を挙げる。それは、手話言語を使って一人一人の子どもと向き合えることである。きこえる先生は手話言語を使って向き合っていると思い込んでいるが、実は私から見る聾学校の現場では大きな誤りがあることを知っている。でも捉え方は多様であるので、厳しく言及するつもりはない。オンライン授業では、手話言語でしっかり向き合うことによって、その児童生徒の学ぶ姿勢が大きく成長していることがより良い評価であり、保護者からの信頼を得ていることが教職員としての正当な評価であると分かったからである。つまり、ロールモデルとしての存在意義を発揮できるからだ。

 オンライン授業を始めた当初は、もちろん不安もある。オンラインなので、【メタ言語をどのようにうまく伝えるべきだろうか。】という課題もある。また【カメラという画面越しで児童生徒のニーズを正しく把握して、その上で正しい適切な指導を準備出来るか。】という課題が大きい。でも私は聾学校現場で働く中で蓄えてきた知識教養と実践機会の経験、そして情報機器の扱いをこなしている自信があった。だから不安なことは日々、改善され児童生徒が楽しく授業に付いていけるようになった。そして人数も増え始めてもすぐにその経験値が活かされ、あっという間に慣れてしまっている現状である。

 この新しい経験を積み重ねつつ、もう一度、聴覚障がい児に足りない課題とは何かを整理して正しい教科指導の在り方を蓄積したいと思うようになった。一方で、20代の頃に抱えていた夢は遠回りになったがこの姿がいつか管理職というより教育委員会の目に留まって、反省の意思を示した上できちんと現場復帰できる見通しがあれば私も過去は捨てて謝罪するつもりである。謝罪した上でお互いに歩み寄りたい。そんな気持ちであるが、歩み寄る姿勢を相手側は門前払いで無視している以上、いまだに方法がまだ分からない。誤った情報という建前の情報を基に私を客観的に評価されている現状がある限り、聞く耳持たないので深刻に縛ることはもう疲れてきた。別のアプローチから相手側の姿勢を非難しつつ、きちんと自分のやっていることが間違っていないんだということが伝わるようにしたい。これが私なりの新しい正義の行動であろう。間違っているかどうかは答えは一つでない。

これが30代の生き方として一つ決めてきたことである。一方で、非正規ながらオンライン授業だけでは当然、生活出来ない。そのために2つの掛け持ちの仕事もしている。合計3つの仕事をやり繰りながら、実は通信教育で6つ目の教員免許取得のための大学生の立場でもある。コロナ禍のためにオンラインで受講しつつ、仕事していることで、大変な日々であるが新しい生き方として、精神的に戦い続けていく私である。