見出し画像

ロイロノートの授業を考えてみた②

先日の投稿「ロイロノートの授業を考えてみた①」に続くが、実はこのロイロノートって今の近況に相応しい新しい授業の活用法ではないかと私は感じている。それだけではない。授業現場だけではなく、研修会だったり団体活動のイベントだったり多様な活用方法のアイデアは協力があれば、実現することも可能である。便利なアプリケーションの一つである。

 でもやっぱり教育現場において、ICTの活用をもう少し活かすことで聴覚障がいの子どもたちにはより考える力や伝える力を身につけることができるものだと考える。きこえる教職員には強い味方になるのではないかとポジティブに捉える。手話言語が上手くできないなら、味方に取り付ける方法も一つの専門性の在り方ではないかと考えていけばいい。でも逆にICTの活用が苦手で使いにくいという悩みの課題もあったりする。

確かにそうかもしれないね。教育現場の流れで考えてみると時代に応じた柔軟な環境整備って人間それぞれが適応出来るかどうかはバラバラであり、新しいことを身につける機会がないからこそ、使い方に慣れにくい課題は当然出てくるだろう。

明治時代⇨黒板による板書の導入   大正時代⇨認定教科書の誕生
昭和時代(戦後)⇨OHP、ホワイトボートの導入

 ここまでが、今によく見る当たり前の風景で現職教員の多くはこの経験値を積み重ねた教養を学習して教員免許を取得した上で教員採用試験に臨み、勤務していることが大半である。だから管理職の大半はこの古い慣例の考えが染み付いていることを自信ある経験談として後世に大事だということの強い圧力がかかることも少なからず、起きている。そのために古い慣例になれない若い教職員が精神的苦痛を感じることも多く存在している。私もその一人であり、<パワハラ>という実態を認めようとしなかった最大の被害者であることを心に閉じておく。

平成時代(20世紀末)⇨コンピューターの導入

 これは、私がちょうど生まれてきた頃でありコンピュータの進化はどんどん成長していくと同時にアナログからデジタルへ便利さが変わってくる。紙に書くことの苦労(労働力)が負担となって時間を削ってしまうことも少しずつ無くなっていくメリットが生まれてきた。しかし、その一方でコンピュータというのはトラブルも発生する。このトラブルに対応する知識を身につけたり、情報モラルを学習しなければ使いこなせないという課題もあり、教員免許の中では学習する機会があまりない。そのために現職教員は、教員研修という時間を通して学習しなければ新しい情報を得る機会はなかなか難しいということが起こる。だからコンピュータよりアナログ同様の慣れた指導方法で、模索することが当たり前のように身に染めていく現状である。

 私が教員免許を取るために学習した内容はここまでの教養で終わっている。だから後に始まるタブレット端末活用の始まりには非常に関心を持っていたきっかけでもあるし、もう少し早くして欲しかったと思っている。教員研修を通して最先端の教育が自分にピッタリだと思えたのは赴任してから3年目である。しかし気付かないうちにもう手遅れであったのである。

平成時代(2000年以降)⇨タブレット端末活用の始まり(I TからICTへ)

 Apple社がiPhone、iPadを販売したのをきっかけにグーっと上がった。コンピュータにおける情報化社会の背景は、教育現場にも影響した時期である。後にGIGAスクール構想へとつながるこの近未来な授業の環境整備が夢に膨らむようなことを当時の私にはなんとなく感じていた。ITからICTへ変わった政府の答申を大学で履修するときに初めて聞いた。しかしこの頃は、まだ始まったばかりなのでもちろん豊富でもなくまだ経験値が浅い状況だったために誰もが良い方向に進めるといった推進派の意見もあまり少なかった。ごく僅かな推進派の研修会に参加したり、勉強することは自己模索したりもちろん実践するのも自分一人で始めなければならないこともある。

 私は教育実習の時に実践したことがあった。古い慣例の指導法に合わせ、PowerPointのスライド機能を積極的に教授方法として勉強しながら準備していた。振り返ってみると間違っているわけではないが、もう少し熟練した作成技術を身につけることや教科書内容の整理をもう少し磨いていく。この2点の時間がもっと欲しかった。と同時にタブレット活用は、きこえない子どもにとってコミュニケーションツールの一つとして使えるものと改めて気付いたのである。

令和時代⇨積極的ICT活用といわゆるGIGAスクール構想への変化

 そして現在、コロナ禍によって休校が長引くと授業進度も止まってはならない。そこでオンライン授業が当たり前のように増え始めてきた。各学校も文科省、教育委員会の強い指示でオンライン授業への新しい取り組みが研究テーマとなって取り扱うように日々模索しなければならない苦労する課題が一気に増えてしまったのである。オンライン授業というのは、非常に便利かもしれない。でもきこえない子どもにとってはオンライン授業が良い方向に行くかどうかは、きこえる教職員の考え(視線)を客観的に考えていかなければならない点は多い。そこをどうするかによって結果は分かれてくる。

音声言語で授業を進めることはスムーズになるというオンライン授業であってもきこえない子にはその音声言語が届かない。そこで手話言語が必要になる。でも手話言語が上手く出来ない方には字幕とか視聴覚教材の積極的な活用をするための事前準備が必要になる。でも他の仕事や保護者対応などに時間が無くなって、本来必要な教材研究がどこまで十分に出来ているのかという教員の専門性が疎かになる課題も実に多く起きているのだ。

 もちろん、管理職もオンライン授業に対して積極的か消極的かという判断を迫ることあるかもしれない。でもそれ以前にきこえない子どもに対する生活実態をきちんと理解しない限り、何でも文科省や教育委員会のお願いを受け入れるだけでは不十分な環境整備だと私は、強い不安と矛盾を感じるのであろう。まず教員一人一人の専門性がどこまで出来ているのかという実態把握がまともに出来ないのに新しいことを押し付けられていて、本当に子どものために指導の準備が進めているのか。

 きこえない子どもには手話言語を大切にしておくこともある。日本人として生きる以上は書記日本語も大事になってくる。でも音声言語が届かないなら、話すことのコミュニケーションが切れてしまい情報量を得ることも下がるわけである。

その両方を解決するために私は、5月より現在取り組んでいることばの学習において、これまでの授業スタイルから転換して「ロイロノート」におけるアプリ活用を通して、手話言語プラスαの同時並行型でよりきこえない子どもにはもっと学習することの楽しさを伝えていきたい。同時に私も現場復帰にいつでも出来るよう、教材研究の更なる理想を追いかけていきたい。

 オンライン授業でも現場の対面授業でもぜひ子どもたちに分かりやすい授業を提供するということは、今のこれからの重要なテーマになってくる。これを意識しつつ、将来必要なことをぜひ形として作るためにろう学校では制限多いのでこの投稿が少しでも知ってほしいと一石投じる。