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双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第11回(28歳:支援を受ける側から支援する側へ)

〜28歳(2011年6月)〜

オムソーリサービスを使い始めるのと並行して、個人的に広報で独立して仕事をする可能性を探っていました。

サービスを使い、病気の対処を身につけた先にあるのは社会復帰。働くこと。

とは言え、私自身が28歳で3回退職をしているので、会社で勤める選択肢は自分の中で無くしていました。

(私の社会人経験の中で、独立してやっていくに値するものはあるか?)

その問いの答えが、広報でした。

C社で広報部門を立ち上げ、そこで一番実績だと思えるのは、1年で日経新聞に6回リリースを送り、5回掲載してもらえたこと。

C社は当時、設立6年目の名も知れぬ会社。

日本経済新聞は、経済に関する社会的に価値のある情報をとどけるメディア。

C社は「株式会社(経済) × 社会的事業(障害者の方の就労支援) 」という立場で、日経ととても親和性ありました。

さらに、マーケティング的には、掲載確率をあげるため、日経の首都圏面に狙いをしぼって掲載にむけアクションしました。

「C社の法人向けサービスを、関東限定にして開発、リリースしましょう。」

営業メンバーにも協力してもらい、日経掲載という視点をいれてサービス開発が出来たことも功を奏し、5回の掲載に至りました。

とはいえ、独立してやっていくためには、C社だけの経験ではダメ、再現性がない。

そこで伊藤さんに提案をし、リヴァ社の広報を手伝いました。

過去何年もの日経新聞を図書館で見て研究をし、どうやったら社歴の浅い会社でも掲載できるのか、を検討しました。

そして、アプローチが形になった、2011年7月14日。

サービス開始2ヶ月目の会社を日経新聞に掲載させることができました。

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2011年7月14日の日本経済新聞夕刊9面の「最前線ひと」欄

他の活動としては、友人つながりのもの。

ノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌス氏の来日講演、その企画の集客、広報メンバーとして関わることで、個人の実績を積み重ねていきました。

ここまでの活動が出来たのは、軽躁の勢いがありました。

青木さんからは、過活動(活動のし過ぎ)に釘をさされることもありましたが、

(とは言え、ここでブレーキをかけすぎると、将来独立できない。)

というジレンマを感じ、時には青木さんに活動してないと偽って、裏で動いていたりもしました。

話は少し脱線しますが、この頃、フェイスブックで友人限定で病気の事を自己開示しようと決めます。

この当時の自分は、施設や、広報関係で関わる人に双極性障害の事を、オープンにしていました。それは人生初のことでした。

すると、とても活動しやすいことに気づいたのです。

であるなら、フェイスブックの友人限定で理解してもらえると、より生きやすくなるかも。

そんな想いで投稿しました。以下がその一文です。

そして、いま、躁鬱病である自分と向き合って気付くのは、 八年間、自分と対話してなかったなと。 本当に自分が発してるメッセージ、今は休め、今は少し頑張っていいよ、 というメッセージが受け取れるようになりました。
一緒に仕事する人に、躁鬱病をオープンにすると、働き過ぎのときは注意してくれて、引きこもりがちならそっとしてくれるようになりました。
やっと受け入れられて、オープンにして、、すると物事はとてもスムーズにまわりだして。

この投稿に、

「あるがままの松浦さんを大切に・・・。」
「もう無理しないでね。みんな仲間だから!!」
「本当の意味で人の痛みが分かるし、同じ思いをしている人に勇気を与えられるんじゃないかな。」

といったコメントをもらえ、開示して活動していくキッカケの一つになりました。


話を戻します。

軽躁の勢いも長くは続かず。そして8月、気分の落ち込みとともにダウン。

(独立って、自分が活動しなくなったら何も動かない。収入も自動で入ってくるわけではない。これでは生きていけない。社会復帰はムリだ。)

そう思い詰めていた時に、青木さんとの面談で言われたセリフで救われました。

「ピアサポーターとしても活躍してもらえるだろうけど、何より、リヴァにとって広報はとても重要になる。
未来の利用者さんに存在を知ってもらううえでも、採用の面でも。そこは他のスタッフには出来ない。
松浦さんにお願いしたい。」

私は涙ながらに、スタッフとして参加したいと伝えました。

そして、いつか伊藤さんや青木さんに恩返しをしたい、とも思いました。

〜29歳(2011年10月)〜

最初は研修生、インターンとしてスタート。

何より辛かったのは、9時出勤でした。

サービス利用時は、午前プログラムの開始が10時のため、そこにギリギリ間に合わせる状態。

朝が弱いので、9時出勤が出来るかがとても不安でした。

とにかく、朝9時に起きるため、平日夜の予定はほとんど入れず、夜更かしをしない、朝起きることに照準を絞った生活にしました。

また、朝が起きたくなるように、朝用のちょっといいパンを前日に用意したりもしました。

そんな工夫も功を奏したのか、最初は無理してでも、やっていると1ヶ月も経てば9時通勤が当たり前になっていました。

〜29歳(2012年2月)〜

研修生の期間も終わり、正式に社員となりました。

障害者雇用ではなく、他の社員と同等の条件での契約でした。

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利用者さんから、疾病の対処などどうしているかを私が聞かれる度に

(今までは隠すべきものだった双極性障害が、今は価値として認められている。とても不思議な感じ。)

そんな、価値観の転換を日々感じる、仕事のスタートでした。

つづく

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