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生と死を見つめる、宗教学者の山折哲雄さん 「いのち」や「こころ」を伝える時代の語り部

 宗教学の第一人者である山折哲雄さんは、親鸞や蓮如、日蓮やダライ・ラマらの思想や生き方だけでなく、美空ひばりの感性を取り上げる一方、幸福と成功を追求する人生に一石を投じた『悲しみの精神史』(2002年、PHP研究所)を著す。生と死を見つめ、宗教とは何か問い続ける山折さんは昨年2月、重度の肺炎に襲われた。呼吸困難に苦しみ、死を意識したというが、治療の甲斐があって回復した。今年5月の朝日新聞に、「現代医学のおかげで生き返ったというか、まあ死に損なったんですな」とインタビューに応じ、心境を語った。今年90歳を迎えた山折さんを知って約四半世紀、筆者は心に残る示唆と、人生訓を与えられた。


■ガンジーの生き方に感動し研究の道へ

国際日本文化研究センター所長時代の山折哲雄さん(2001年頃)

 山折哲雄さんは1931年、 僧侶の父が布教のために渡ったサンフランシスコで生まれた。帰国後は幼稚園から小学校5年まで東京で暮らす。東京空襲を逃れ、疎開した岩手県花巻市で高校までの思春期を過ごす。長男なので花巻市にある寺を継ぐはずだった。しかしインド独立の父・ガンジーの生き方に感動し、東北大学でインド哲学を学んだ。大学院に進み、上京後は数々の大学の講師に職を得る。研究の道を選択したため、寺は弟が継いだ。

 昼は勤労者、夜は研究者の清貧生活の中で、蓮如の生きざまに興味を抱く。親鸞と異なり、生涯に5人の妻を得て13男14女をもうけた蓮如はおおよそ純粋な宗教人とは隔たっているが、分かりやすい説法で農民に浸透した。『人間蓮如』(1970 年、春秋社、/2010年、洋泉社)をまるごと描き、『思想の科学』に一挙掲載されたことが、学者としての出発点になる。

 山折さんは1969年、春秋社に就職する。その後は学者として研究の道へ。1976年に駒沢大学、翌年から東北大学の助教授をはじめ、1982年から国立歴史民俗博物館教授、1988年からは国際日本文化研究センター(略称=日文研)教授を務める。日文研退任後、1998年には白鳳女子短期大学の初代学長を経て、2000年に教育改革国民会議委員、京都造形芸術大学大学院長を歴任する。2001年から06年までの5年間、再び日文研に戻り所長を務める。

 2002年2月、日文研の所長室を訪問した際、山折さんは開口一番、「私は遊牧民だね。決して農耕民ではない」と、自らの生き方を振り返った。「同じ所に定着しないんだな。5年が限度かな。唯一の例外がここ日文研だ。教授として7年半いたからね」と言葉を継いだ。なるほど、山折さんの経歴をたどると、日文研の他はいずれも勤続は5年以内だ。

 2002年2月、日文研の所長室を訪問した際、山折さんは開口一番、「私は遊牧民だね。決して農耕民ではない」と、自らの生き方を振り返った。「私は同じ所に定着しないんだな。5年が限度かな。唯一の例外がここ日文研だ。教授として7年半いたからね」と言葉を継いだ。なるほど、山折さんの経歴をたどると、日文研の他はいずれも勤続は5年以内だ。

 なぜ日文研だけ、そして三代目の所長として返り咲いたのか。「ここは居心地がいいんだ。それと初代所長の梅原猛さんの存在が大きかった」。気さくな口調、あどけない笑顔の宗教学者はこう付け加えた。「自身への公約がまた延期になってしまった。四国への遍路があこがれなんですがね」とも語っていた。

いつも笑顔の山折哲雄さん

 これまで山折さんは和辻哲郎文化賞(2002年)をはじめ、南方熊楠賞(2010年)を受賞。2010年に瑞宝中綬章を授かっている。幅広い視野から日本人の宗教意識や精神構造を捉える。著書に『近代日本人の宗教意識』(1996 年、岩波書店 /2007、岩波現代文庫)、『愛欲の精神史』(2001年、小学館/2010年、角川ソフィア文庫 全3巻)、『ブッダは、なぜ子を捨てたか』(2006年、集英社)、『生老病死』(2021年、KADOKAWA)など次々と発表している。

■四半世紀、公私にわたって交誼いただく

 私が山折さんに出会ったのは、日文研所長になる前、居心地のいい日文研を定年退職し、1998年に開校の白鳳女子短期大学の学長に就任してからだ。忘れもしないその開学式に訪ねた。当時、私が取り組んでいた朝日新聞創刊120周年記念のプロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」の一環で、国際シンポジウムの企画検討委員会委員長になっていただくためだった。祝賀会の間隙を縫っての依頼となったが、快諾を得た。

「シルクロード 三蔵法師の道」シンポジウムで講演する山折哲雄さん(1997年)

 シンポジウムは、なら・シルクロード博記念国際交流財団や日本ユネスコ協会連盟と共催し、97年の「三蔵法師の風土と足跡」に続き、99年に「三蔵法師その遺産と指針」をテーマに開催することが決まっていた。山折委員長の取りまとめで順調に具体化した。基調講演は日文研顧問だった梅原さんに引き受けてもらった。

 山折さんは公開討論会で「玄奘三蔵はシルクロードのみならずインド国内も歩き回る僧だった。巡礼は人と人、人と物の交流をスムーズにし、何より異文化、異民族を結びつけた」と発言した。三蔵法師は偉大な宗教家にとどまらず、異文化交流を実践した、志の高い巡礼者なのだ。私が創刊記念企画として三蔵法師を取り上げた意図と重なり合う発言だった。

 99年には、山折さんと同じ白鳳女子短期大学の教授で、かねてから知り合いの原田平作さんからの要請で、「21世紀の宗教と哲学」の対談を応援した。対談は山折さんと、日本哲学会委員長の加藤尚武・京都大学教授で、京都の大谷ホールで催された。私は冒頭「本日の対談では、二人の碩学が宗教や哲学のワクを超え、その果たすべき役割や可能性を縦横無尽に話し合っていただきます」と挨拶をした。

 この時の対談は一年後、『世紀を見抜く』(2000年、醍醐書房)として出版された。その中で、山折さんは「21世紀はますます、宗教と民族が世界の各地における紛争の火種になっていくでしょう。そもそも近代的な世界認識というのは、社会が近代化すればするほど宗教と民族の要因はしだいに制御され克服されていくという考えにもとづいていました。その我々の近代的な観念が今復讐を受けつつあるのです」と述べている。米でのテロ、そして報復のアフガニスタン攻撃を暗示するような先見的な発言だった。

 山折さんは名高い宗教学者ということで、正直言って近寄りがたかった。しかしお話してみると、温厚で気さくな人柄に触れ、身近な人になった。その後、私的なことでも、面倒をみていただく。拙著『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(2000年、東方出版)の出版記念祝賀会に、駆けつけ祝辞までいただいた。「白鳥さんの口車に乗せられお付き合いしました。私にとっては夢地獄でした。私の故郷は花巻ですが、東北には白鳥伝説が数多い。そのルーツの名にふさわしく頑張って下さい」と、ユーモアたっぷりのスピーチだった。その洒脱な人柄が山折さんの魅力のひとつと思えた。

『夢しごと 三蔵法師を伝えて』の出版記念祝賀会で懇親の山折哲雄さん(2000年)


 また『夢をつむぐ人々』(2002年、東方出版)では、「心の世紀へメッセージ」といったテーマから、山折さんの言動について取り上げた。お会いする機会も増え、『夢追いびとのための不安と決断』(2006年、三五館)では、序文を引き受けてくださった。「日本列島の中で繰り広げられている地道な地域再興の物語が、きめこまかい実地踏査にもとづいていくつも報告されている」と、心温まる文章を寄せられた。

『夢追いびとのための不安と決断』(2006年、三五館)と序文

■『夕焼け小焼け』の歌詞に仏教思想

筆者の書棚の一角に並ぶ山折哲雄さんの著書

 私は山折さんの『宗教の行方』(1996年)『いのちの旅』(1997年、いずれも現代書館)や『宗教の話』(1997年、」朝日新聞社)などを読んでいたが、日本および日本人の宗教に懐疑的な姿勢がうかがえた。阪神・淡路大震災でも救援活動に集まったのはボランンティアであり、心のケアに奔走したのは精神科医や各種カウンセラーたちで、宗教者の活動ではなかったと断じていた。そしてオウム信者たちの出家や断食の行為を無神論のまなざしで包囲していいものだろうかとも語っていた。私は三蔵法師の生きざまに触れる中、こうした山折さんの宗教感に共感を覚えた。

 山折さんは98年に、神戸の阪神・淡路大震災復興支援館で「夕陽と日本人」と題した講演をした。その内容は、私にとって新鮮だった。なぜ日本人は夕焼け空に感動するのか。そのかなたに死後の理想的な世界、浄土を思い描いているのではないか。それは意識の底に流れているものだという。そして『夕焼け小焼け』(1919年、中村雨紅作詞)の歌詞に沿って、次のような解説を展開した。

 一行目の「夕焼け小焼けで日が暮れて」は、東から太陽が昇り、西に沈んでいく日常の繰り返しに、歴史の深みを感じる。二行目の「山のお寺の鐘が鳴る」は、山から始まる仏教と、その鐘の音は人生の区切りを示す響きであり、無常の思想を伝えるメッセージとなっている。三行目の「おててつないで皆帰ろう」は、子供は親の元へ、大人も帰るべき所へ帰れとの意味だ。深読みすれば、帰らなければならない心の焦り、絶望感、悲しみ…といった重みだ。最後の「カラスと一緒に帰りましょう」は、帰るべき所に帰るのは人間だけじゃない。共生の思想といえるが、全てのものは命の終わる時がくるんだ。

夕陽といえば、私も朝日新聞金沢支局長時代に夕陽写真コンテストの企画創設にかかわった。動機は夕陽に郷愁とロマンを感じたことと、過疎化の著しい日本海からの発信として取り上げたが、山折さんの夕陽論をもっと早く聞いていたならば、別の視点からの事業展開ができただろうと思った。その10年間の優秀作品を集めて『日本海の夕陽』(2001年、東方出版)を編集にも携わり、出版された本を山折さんに届け、喜んでいただいた。

 山折さんの講演は、山田洋次監督の『男はつらいよ』の寅さんシリーズには、必ず夕陽の場面が入っているとか、『夕鶴』という言葉は、作者の木下順二さんが、日本人の心の糧になるような美しい、深い意味を込めた題名だったという事例を挙げるなど名調子だった。

■美空ひばりの演歌の源流に、ご詠歌

 山折さんは、夕陽を通して日本人の心性を分析する一方で、美空ひばりの演歌を通して日本人の感性にも迫っている。もちろんひばりの大ファンで、自宅には全曲を収めたCDがそろっている。ひばりの生前には新宿コマ劇場や帝国劇場をはじめ地方劇場にも出向いて行った。ライトを浴びた姿に釈迦誕生仏をダブだぶらせるぐらいだから相当なものだ。海外旅行にテープを持っていくほどで、夕食後や就寝前はひばり演歌でいやされるという。

 『演歌と日本人「美空ひばり」の世界を通して日本人の心性と感性を探る』(1984年、PHP研究所)の中で、こう書いている。「突然の啓示のように、美空ひばりの演歌とご詠歌が急に似た者同士の音楽のように思えてきた。ご詠歌の底に流れている哀調をおびた無常感は、美空ひばりの節回しの中にも流れているのではないか。演歌の心をたぐり寄せ、その源流をさかのぼっていくとご詠歌の岸辺に出るのではないか。そんな思いが喉もとをつきあげてきたのである」

 山折さんといえば、オウム真理教事件の3年前に麻原彰晃教祖と『別冊太陽』で対談していた。そして事件後『諸君』(1995年6月号)で、その犯罪を単なる反国家的、反社会的な逸脱行為といったとらえ方でなく、現代日本宗教の危機的な状況とその深部にメスをいれなければ、と主張していた。

 「オウム真理教による暴走と狂気の集団行動を、われわれ自身が生きているこの近代社会のなかにしっかり位置づけるとともに、われわれ自身が体験し通過してきた自己認識の内実を真剣に点検してみることではないか」と、結論づけていた。

 『ブッダは、なぜ子を捨てたか』(2006年、集英社新書)でも話題を呼んだ。その中で、ブッダは我が子に「悪魔」と名づけたと書いている。山折さんは、「シッダールタが、初めての子が生まれた直後に家を出て修行し、35歳で悟りを開いた。ありとあらゆる苦行をやっています。究極的には、自分の犯した罪、罪から免れるための自責の中にいる生活段階ですが、自分を捨てるためのステージでもあったと思います。なぜ家を出たのか、子どもに何故「悪魔」と名付けたのかという問題がそこから明らかになるのではないでしょうか」と言及している。

■「共死」の考えと、「万物生命教」の持論

 その後も山折さんとの交流は続く。2002年3月には備前の陶芸家・森陶岳さんの窯に同行した。森さんを囲んで窯変談義をした。山折さんは「火入れにしめ縄をはっているのは神の降臨を前提とする結界ですが、登り窯それ自体が一種の宗教的空間です。修行者が修行を通して仏と一体化するように、窯のなかでの作品も単なる土の塊から窯変の過程を経て芸術作品に変容するのですね」と語られていた。

備前の陶芸家・森陶岳さん(右)の窯に同行(2002年)

 私が住んでいる泉大津市が2012年、市制70周年記念で開催したカルチャー・スコール「日本人の『こころ』の講師に、山折さんを紹介した。

 2015年には、「お地蔵さんはいつでも」出版記念パーティーの案内が届き京都の会場に駆け付けた。山折さんが「平成地蔵賛歌」という詩を書かれ、それに永田萠さんが絵を添えて素敵な絵本『おじぞうさんはいつでも』が出版されたのを記念する催しだった。このパーティーや絵本の収益で、東日本大震災の被災地に、お地蔵さんを贈る活動の一環だった。

絵本『おじぞうさんはいつでも』
「おじぞうさんはいつでも」出版記念パーティー(2015年)
絵を描いた永田萠さん(左)と山折哲雄さん(2015年)


 私にとって一番の思い出は、2006年10月、大阪の朝日カルチャーセンターの公開講座だ。私が聞き役で、「混沌のいま、語り継ぐ命と心」をテーマに、共生のあり方などについて、見解を伺った。

朝日カルチャーセンターの公開講座(2006年、左端が筆者)
公開講座で熱弁の山折哲雄さん(2006年)

 その締めくくりに、「人が生きていくうえで、伝えたいことをお聞きした。山折さんは、歯切れよく次のような言葉を強調した。

 共に生きる人間は、いずれ共に死ぬのです。無常の原則が貫かれるわけです。教育界は、「生きる力」の一本槍です。仏教界も「共死」を言わない。人生80年の時代というのは、老病死をじっくり見つめながら最期を迎える、そういう時代なんですね。ところがその老病死をじっくりと見つめるためのモデルがはどこにあるかというと、どこにもない。それが、今の日本社会をの不安にしている一番の原因だと私は思います。

龍安寺の石庭でくつろぐ山折哲雄さん

 山折さんは毎朝、座禅を組むことを日課にしていた。線香が燃え尽きて消えるまでの一時間。座禅は昔、永平寺で手ほどきを受けた。とはいえ「無念無想なんて一度もありえません。いつも雑念妄想なんですよ」。原稿のこと、食べ物のこと、仕事のこと、あいつにも会ってみたいな…。その朝のひとときは、「われ考える、ゆえにわれあり」といったデカルトの心境だそうだ。

座禅を組む山折哲雄さん

 毎年、正月に夫人と遺言を書き換えている。「生き残った方が旅に出かけた際、遺灰を山や海にまいてほしい」。ガンジーの遺骨は1948年、ガンジス河に流された。そして自身も一握散骨が願いだという。墓はいらない自然葬に共鳴していることもあって、お寺からの講演依頼はほとんどこないという。

 山折さんは、日文研の所長就任にあたって、日本文明の研究を起ち上げた。異なる文明、宗教、民族の対立で幕開けた21世紀、共生への思想をどのように考えたらいいのか。山折さんの答えは明解だ。「多神教以前、一神教以前の宗教意識が大切ではないでしょうか。イスラム教もキリスト教もユダヤ教も存在しなかった時代、天地万物すべてのものに魂が宿っている信仰が存在したんです。私は万物生命教とでも呼びたい。地球が紛争や環境破壊で行き着くとこまできたら、そこに帰らざるをえないのではないでしょうか」

 紛争の絶えない国際情勢や地球環境の悪化、新型コロナの世界的な感染など混迷の世の中。私は山折さんこそ、「時代の語りべ」だと確信している。

書斎で執筆中の山折哲雄さん


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