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急テンポで近代化のマレーシアを再訪  多民族、多宗教が共存、リゾート地としても注目

 赤道近く大自然が広がるマレーシアは、マレー半島と世界最古の熱帯雨林が広がるボルネオ島北部から成り立っている。近年、急テンポで近代化が進むとともに、東南アジアの中でも指折りのリゾート地として注目される。一方で、多民族国家であり、民族や宗教な文化の多様性にあふれる。2008年3月に初めて訪れ、首都クアラルンプールを観光し、リゾート地のペナン島にも宿泊した。再訪の機会があれば、「海のシルクロード」の要衝の地、マラッカに行ってみたいと思っていた。東西を結ぶ交易経路であるユーラシア大陸のオアシスの道を断続的に旅してきただけに、関心があった。9年後の2017年5月に実現した。そのマラッカをはじめ、クアラルンプールやペナン島をリポートする。

「海のシルクロード」の名残の街マラッカ


関西空港から直行便で約5時間半、夕刻にマレーシアへ。到着したクアラルンプール空港は1998年に開港したアジアのハブ空港で、成田の14倍の広さを

成田の14倍の広さ、日本の技術で開港したクアラルンプール空港
以下2017年5月、筆者撮影

持つ。「森の中の空港、空港の中の森」をコンセプトに、故黒川紀章氏がターミナルビルを含む全体計画を設計し、メインターミナルを大成建設、サテライトを竹中工務店が施工した。翌朝、KL(クアラルンプールの略称)セントラル駅からセルダン駅まで列車で、そこからバスに乗り継ぎ、昼前には主目的地のマラッカに着いた。
 海のシルクロード」は、東アジアとヨーロッパを結ぶ海上の交易路だ。中国の華南を発して、南シナ海に面するベトナムやタイ、マレー半島、マラッカ海峡を抜け、インド洋、ペルシャ湾海沿いのインド、イラン、アラビア各国を経て、さらに紅海から地中海へ連なり、トルコやギリシャ、イタリアへと広がり、「陸のシルクロード」をしのぐ遥かなルートである。
 青い海原を港から港へ、ジャンクやダウ船と呼ばれる木造帆船が航海し、物資を運んだ。東から絹や真珠、香辛料が、西からはガラス、銀などの装飾品、アラビア馬、インドの綿織物、東西双方の陶磁器も交易された。運ばれたのは物資だけでなく、様々な芸術や技術、思想や宗教も伝播し、融合した。中でもマラッカは15世紀、中継貿易港として繁栄を極めた。
 マラッカはクアラルンプールの南東約130キロに位置する港湾都市だ。2008年に世界遺産に登録されている。14世紀末、この地に興ったマラッカ王国は、インド、中国、アラブ諸国との香辛料の貿易で栄えた。16世紀以降は、マラッカ海峡に面する地理的条件の良さから、ポルトガル、オランダ、イギリスなどヨーロッパの列強国が、この地を東西貿易の拠点とすべく相次いで支配した。
 

まるで中華街の雰囲気が漂うマラッカのトコン通り

マラッカのトコン通りの街に入ると、まるで中華街の雰囲気。漢字の看板を見ながら歩いていると青雲亭と呼ばれる独特な屋根をいただく色彩豊かな寺があった。明の大遠征を指揮した海軍大将、鄭和の功績を讃え1646年に建立されたマレーシア最古の道教寺とか。本堂中央に金ピカの観音菩薩が祀られて、境内は多くの参詣客でにぎわっていた。
 

独特な屋根をいただく青雲亭寺院
参詣客でにぎわう青雲亭寺院本堂

 青雲亭から少し歩くと、白いミナレットが聳えるカンポン・クリン・モスクへ。インド系イスラム教徒に由来した名前を冠した古いモスクで、1748年に建造されたという。敷地内に墓地があり特異な佇まいだ。
 

白いミナレットが聳えるカンポン・クリン・モスク
モスクの敷地内に墓も数多く建つ

 通りが川に突き当たり、橋を渡ると、観光名所のオランダ広場がある。川を隔て東洋から西洋へ風景が一変する。今度はオランダ建築様式のレンガが美しいキリスト教会が建つ。正面に十字架と「Christ Church Melaka 1753」の標記が際立つ。

オランダ建築様式のキリスト教会

 道教のお寺があれば、すぐ近くにイスラム教のモスク…、そしてキリスト教会も。それぞれの建物が異なり、多民族国家ならではの光景が広がる。まさに多様な宗教が混在する。

ポルトガルのセントポール教会跡

 オランダ広場から坂を登った丘の上にセントポール教会跡が残る。マラッカ王朝を駆逐し,占領したポルトガルが1521年に建立したカトリック教会だったそうだ。教会内の金網の覆いの下に、1552年に亡くなったフランシスザビエルの遺体が一時安置されていたという。

フランシスザビエルの遺体が一時安置されていた場所

 この丘からマラッカ海峡が望める。かつて丘のすぐ近くまで海だったそうだが、埋め立てられ、海峡は遠くなった。丘を下ったところに、移設された

丘から望んだマラッカ海峡

サンティアゴ砦がある。ポルトガル軍が16世紀初め、オランダ軍との戦いに備え建設したもので、当時は巨大な城砦が築かれていたそうだが、現在は門といくつかの砲台跡が残る。マラッカを歩いていると、中国系にインド系や

門と砲台跡が残るサンティアゴ砦

イスラム系、さらに欧州系など様々な風貌をした人々を見かける。広場ではタクシー代わりの飾り自転車のタクシーが行き交う。マラッカ海峡という地

タクシー代わりの飾り自転車

の利を求めて支配されてきた歴史の中で、世界各地からやってきた商人をはじめ船乗りや兵士、宣教師や僧侶、兵士らが行き交い、住みつき多様な民族や宗教が共存、共生してきたことがうかがえた。

風景を変える首都クアラルンプールの都市化
 

 首都クアラルンプールは、中国人の移民によって、錫の採掘拠点として1857年に開発された。その後1873~1957年、イギリスに支配され、錫とゴムの産出で発展した。クアラルンプールの現在約180万人程度だが、首都圏は年3%の増加見込みで、2030年には1000万人を超すと予想されている。シンガポールやバンコクと並び東南アジア有数の大都市だ。ちなみに国土面積は日本よりひとまわり小さい約33万平方キロで、そのうち60パーセントがジャングルなのに人口は3260万人(2022年マレーシア統計局)にも及ぶ。
 クアラルンプールに連泊し、昼と夜の街を堪能した。近代都市を象徴するのがペトロナス・ツインタワーだ。89階建て452メートルで、完成した1998

89階建てのペトロナス・ツインタワー
ツインタワーの夜景

年当時は世界一だった。ツインの一つは日本の間組、もう一つが韓国企業が建設し、41階に架かる連絡橋がフランスの建設会社が手がけた。タワーの低層部分がショッピング・モールになっていて、その吹き抜けの空間が見事だ。タワーの前庭が市民の憩いの場で、ライトアップの噴水が色とりどりの光彩を放ちすばらしい。
 

ライトアップの噴水

 連絡橋の展望は170メートルで、これより約100メートル高いというKLタワーに昇った。こちらは1996年に完成していて、高さは421メートル。展望台はぐるり360度の大パノラマの眺望を楽しめる。市街にはツインタワーはじ

高さは421メートルのKLタワー
展望台からの眺望

め超高層ビルが林立している。地震が無い国土とあって、渡航時、118階と92階のビルも建設中だった。

新王宮の全景

 市内観光では、2011年11月に完成した新王宮を初めて見た。黄金に輝く門扉が美しく、門の向こうを覗けば、黄色いドーム屋根の華麗な新王宮の宮殿が見える。王宮の住人は、国内13州の内、国王のいる9州の国王の互選で決まる。任期は5年だ。
 

黄金に輝く門扉

華麗な宮殿

 新王宮の後、独立戦争で共産主義ゲリラと戦い、亡くなった兵士たちを弔う国家記念碑や、1957年にイギリスからの独立を宣言した独立広場、少し閉
 

独立戦争で亡くなった兵士たちを弔う国家記念碑
独立を宣言した独立広場

じた青い傘のような斬新なデザインで1965年に出来た8000人収容の国立モスクなどを訪ねた。いずれも2度目で、前回の記憶が蘇った。

8000人が入れる国立モスク

 初めて訪ねたスポットのスブラマニアン寺は、マレーシアにおけるヒンドゥー教の聖地だ。入り口に高さ43メートル、全身金箔で覆われた世界最大のムルガン像が屹立する。シヴァ神の次男・ムルガン神がここの主人公だ。休

高さ43メートルで世界最大のムルガン像
272段もある階段
大きな空間になっているバツー洞窟
ヒンドゥー教のスブラマニアン寺

み休み272段の階段を登った先に鍾乳洞があり、ムルガン神や他のヒンドゥーの神々を祀っている。ちなみにマレーシアでの宗教の割合は、イスラム教が60パーセント、キリスト教9パーセントで、3番目がヒンドゥー教の6パーセントと続く。
 

蒸気機関車が置かれた国立博物館

 国立博物館も今回見学したいスポットだった。駐車場脇の入り口には数種の蒸気機関車が置かれていた。2・3階の展示室には、考古資料から歴史的文化財、自然や地理、文化に関する史料、近代や現代に至る生活用品や美術工芸品など幅広い陳列で、ひと通りマレーシアの歴史や社会の様子を学べた。
 短期間とはいえ、密度の濃いクアラルンプールの街歩きだった。経済発展がこの街の風景を変えていく様子に驚いた。マラッカ同様、街にはマレー人や中国人、インド人たちが共存しながら活動している。歴史が浅いながら、若い多民族国家のエネルギッシュな姿が印象付けられた。

連邦政府直轄地に移設された首相官邸


 帰国便は深夜だったため、空港へ向う途中、首相官邸など政府機関を集結させた「プトラジャヤ(Putrajaya)」と称される一大行政センターに立ち寄った。首都クアラルンプールから南方25キロ、46平方キロもの広大な土地を開発した直轄領で、1995年から着工し、順次主要機関を移設した。その思い切った政策方針とスケールの大きさに驚愕した。
 ここは公務員の街で、現在10万人がここで働き、その家族らも暮らす。夜間照明の広場から球形屋根の首相官邸や、官庁と公務員の住居棟が建つ。広場近くには、ピンク色の美しいプトラ・モスクも。もちろん学校や病院、ショッピングセンターなども整っている。
 

ピンク色のプトラ・モスク

 東京に集中する日本でも官庁の分散が叫ばれながら、文化庁が京都に移転移転しただけだ。世界でも数少ないであろう一大構想に、81億米ドルの建設費を見込んだそうだが、インフラや関連施設の整備などでもっと膨大な資金がかかっていることだろう。これらの巨費の負担が国民の税金で賄われるというから、手放しで称賛できない。

「東洋の真珠」ペナン島は指折りのリゾート地


 前回2008年の旅で2日間滞在したペナン島のことも書き添えておく。マラッカ海峡の入り口に浮かぶペナン島は、南北24キロ、東西15キロもあり、風光に恵まれ「東洋の真珠」と謳われた美しい島で、タイのプーケット島と並ぶリゾート地だ。
 スルタンによる長い統治の後には、イギリスが進出。18世紀後半には植民地として支配をした。戦時中は日本軍が占領し、1957年になってマラヤ連邦に参加。現在は対岸のバタワース地区とペナン州を形成、マレーシアの中核都市の地位を築いている。
 島にはペナン国際空港もあるが、クアラルンプールから対岸のバターワースまで鉄道も。私たちツアー客は専用バスで移動した。途中、高原避暑地の

イボ―鉄道駅
ぺラトン洞窟寺院
オランウータン保護島の赤ちゃん

キャメロン・ハイランドや錫鉱石で栄えたイポー市にも下車。その後、ぺラトン洞窟寺院やオランウータン保護島のブキットメラにも立ち寄った。

長いペナン大橋を支える支柱
ジョージタウンの一角

 バターワースからは13.5キロもある長いペナン大橋(ペナン・ブリッジ)で結ばれている。すぐに国内最大の貿易港でにぎわうジョージタウンへ。翌日には、コーンウォーリス砦や寝釈迦仏寺院ビルマ寺院などを見学した。さらに植物園や美しい海岸などを散策し、自然を満喫した。
 

宿泊したハイドロ マジェスティック・ホテル。ロングステイも可能
ペナン島の観光名所・寝釈迦仏寺院
自然いっぱいの植物園

サルの放し飼いも
美しいペナン島の海岸

 ペナン島は、日本人のロングステイ先としても急増している。かつてハワイやオーストラリアだったが、いまや最も多いのがマレーシアであり、中でもペナン島が人気という。それもそのはず気温は年中24度から32度で、1年を通しTシャツと短パンで過ごせる。それでいて物価は日本よりかなり低水準であり、治安もよく日本語の話せるスタッフが常駐する病院があるなど施設も整備されているからだ。
 私が宿泊したホテルで衣類を販売していた元日本商社マンのマレーシア人は「アパート・マンションから一軒家まで予算に応じ好みのタイプがあります。仮にホテル住まいにしても2人1室、朝食付きで20万円足らずです」と、しきりにロングステイを勧誘された。
 少子・超高齢社会を迎え、今の社会保障制度はいずれ破綻するおそれがある日本では、蓄えがない限り年金生活もままならない現状だ。ライフスタイルを変え、日本脱出を図る団塊の世代が増えても仕方のないことかもしれない。

急テンポな発展の表と裏、その内実は…


 マレーシアと言えば、いくつかの事件を思い出す。北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏が訪問した2017年4月、マレーシア空港で殺された事件が生々しい。その一部始終が監視カメラに捉えられ、連日テレビニュースで報じられた。しかし結局、マレーシア政府は、遺体の北朝鮮移送を承認し、この事件の真相は闇に葬られた。
 当時のナジブ・ラザク首相は、「水面下で懸命の努力を重ねてきた。同胞マレーシア人の北朝鮮からの帰還を確保するため、様々な障害を乗り越えた」と説明。さらに「マレーシアの国土で起きたこの重大事件に対する警察捜査は続行する。この殺人の責任者全員に法の裁きを与えるため、可能な手段はすべて尽くすよう指示した」と述べていた。
 明らかに、北朝鮮の国家犯罪なのに、容疑者が本国に逃亡し、マレーシア警察が事件との関連を疑っていた北朝鮮の男性3人も棺と共に出国した。これでは真相解明に必要な手段すら放棄したと思わざるをえない。私が乗った飛行機がエアアジアXのため第2ターミナルに着き、第1ターミナルの現場を見ることが出来なかった。後味の悪い事件だ。
 もはや人々の記憶から忘れられつつあるのが、クアラルンプール空港発のマレーシア航空機の行方不明だ。2014年3月8日 午前2時40分、マレーシア航空MH370便が離陸して2時間後、消息を断った。目的地は北京で、乗員含め239人が搭乗していた。各国が参加して懸命な捜索を続けたが、墜落した確証が得られないまま推移した。
 この事件をめぐって、政府の公式見解の発表が遅れ、状況説明が二転三転するなど情報が錯綜、陰謀論を始め様々な憶測が飛び交った。その後2015年から翌年にかけてフランス領レユニオンやモザンビーク、モーリシャス、マダガスカルなどでも機体の一部が発見された。
 私はマレーシアの旅に『マレーシア航空機はなぜ消えた』(2014年、講談社)を携行し、機内で読了した。著者は元日本航空機長で、1万4000時間の記録を持つ超ベテランパイロットだ。経験上、あらゆるケースを想定して、「事故ではなく事件である」と断定している。機長による死を覚悟した政府との交渉があったのではと推論する。機長は異常性行為で実刑判決を受けた元副首相の熱烈な支持者であり、現政権に反対する活動をしていたことなどを取り上げている。そして最後に、「真実はなにか」を問い、「公開されていない真実がある」と結論付ける。真相は謎だが、説得力のある内容だった。
 日本は第二次世界大戦で約3年間も占領し、1975年に日本赤軍が在マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠して職員ら約50人の人質事件もあった。日本国内の刑務所に収監中の囚人解放を要求したテロ事件で、当時の三木内閣がテロリストの要求に屈し、「超法規的措置」として5人を解放した。遠く離れた国とはいえ、歴史的な関わり深い。マレーシアの政治的な動向や出来事に、無関心であってはならないと痛感した。
 2度のマレーシア渡航で、マレー半島のかなり広域な地域をカバーできた。クアラルンプールの都市化をはじめ経済発展を遂げ、先進国への仲間入りを目指しているのが、十分に理解しえた。その一方で、豪華な新王宮や壮大な「プトラジャヤ」を建設し、外観が変貌するマレーシアの内実にも思いを馳せる旅でもあった。

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