見出し画像

眠りから醒めた中世の都、ブルージュ  路地裏に名作の名残、世界遺産に登録

手元に一冊の本がある。ベルギーの詩人・小説家、ローデンバック(1855-98)の『死都ブリュージュ』(1976年:窪田般弥訳の岩波文庫版、1988年:岩波文庫刊)だ。

『死都ブリュージュ』(1988年、岩波文庫刊)

 暗いタイトルだが、街はこの作品で脚光を浴びた。ブルージュは13世紀、水運を通じて北海ともつながり、交易拠点として栄えた。しかし入り江に土砂が堆積し大型船の遡行が出来なくなり、商業都市としての機能を失った。やがて15世紀以降「死都」と言われながらも、過去の栄光と冨をなおも街角に遺す。中世の歴史地区ブルージュは、2000年に世界遺産となり、再び観光地として多くの人を引き寄せている。

■運河が張り巡らされ、沢山の橋がかかる

 展覧会企画を手掛けていた私は、「ベルギーの巨匠5人」展を担当していて、開幕前の現地視察もあって、ベルギー各地を訪ね歩いた。ブルージュが世界遺産に登録された年に、足を延ばした『死都ブリュージュ』の舞台は、ことさら印象に残る。

ブルージュのシンボル(現地発行の絵葉書より)

 北西部の西フランドル州の州都・ブルージュは、ブリュッセルの西約90キロ、特急列車で1時間ほどのところにあるが、バスでゲントに立ち寄り、夕刻に入った。車窓から見る街は、運河が張り巡らされ、沢山の橋がかかっていた。赤い三角屋根にレンガ積みの家並みと繊細な枝垂れ柳が水面に映えていた。そんな運河沿いの小さなコテージ風のホテルに落ち着く。

中世の歴史地区ブルージュの中心部(現地発行のパンフレットより)

 同じ「水の都」ヴェネツィアとはひと味違った、しっとりと落ち着いた街並みが美しい。早速、街中へ食事に出かける。名物のムール貝がバケツいっぱい、テーブルに置かれた。豊富なビールが食欲をあおってくれる。

運河の枝垂れ柳が水面に映えるローゼンフード波止場

 食後、土産店をのぞくと、伝統のレース編みや、アンティークな小物が買い気を誘う。午後9時過ぎになっても、マルクト広場は人でごった返していた。若者らのコンサートが始まるのだ。しばらくニューミュージックの音とマルクト広場に身を置いた。

運河沿いの売店
運河にかかる橋のたもとで筆者

 長い眠りから覚めたこの中世の街にすっかり、溶け込んだ。異国の風潮に酔ったためか眠られぬまま、ホテルのソファで歴史資料をひも解く。フランドル伯爵が9世紀に街を拓いたヨーロッパでも有数の古都ブルージュは、フランス語の読み、この地方のフラマン語ではブルッヘと呼ばれている。町の中には約50を数える橋があり、ブルッヘとは「橋」を意味する言葉だという。

橋の上で牛の背中にアイスクリームなどを背負わせ行商する光景も

 ブルージュは海と結ばれた水路を活かし、11、12世紀から西ヨーロッパでの名だたる貿易港となり、フランドルの首都として発展した。14世紀にはフランドル名産の毛織物を求めて、ハンザ商人を中心に世界各地から商人が集まり、繁栄の頂点に達した。しかし沈積した砂泥が運河を浅くし、商業港としての役割をスヘルド河口のアントウェルペンに譲った。

運河沿いの建物

 ただし、実際のところは、土砂の堆積だけが衰退の理由ではなく、当時の国際政治経済情勢の大きな流れが、アントワープへと動いていってしまった、ということのようだ。いずれにしても、15世紀以来、街の発展が止まってしまった。

■教会や修道院の名建築を眺め石畳を散策

 翌日は一日かけて街を探索した。それほど広くないから、広い通りから路地も歩いた。石畳の街中に響く馬車のひずめの音につられて脇道に入って行くと、柔らかな朝の日差しに広葉樹の樹々が優しい。道沿いにテーブルを並べたカフェでは、朝からビールを楽しんでいた。挨拶するといくつもの笑顔が返ってくる。

石畳の通り
タクシー代わりに、街では馬車が走り、ひずめの音がこころよい

 その脇を通り過ぎて水路に架かる石橋を何度も渡ると、まもなく、ノートルダム教会(聖母教会)の高さ122メートルの塔が見えてきた。道沿いには土産物屋が並び、さしずめ「京都の三年坂」のような風情だ。

遠くにノートルダム教会
高さ122メートルのノートルダム教会

 旅には意外な発見や出会いがある。アルプスを超えた北の街で、あのイタリアの巨匠の作品に出会えるとは思わなかった。午後、再び町のどこからでも見ることができる尖塔を目印に訪ねた聖母教会に、イタリア国外で唯一といわれるミケランジェロの傑作《聖母子像》があった。

ミケランジェロの傑作《聖母子像》

 均整の取れた美し大理石の像は、ブルージュの宝といえよう。ミケランジェロと親しかったフランドルの商人が入手したという。この「聖母子像」が作られたころ、ブルージュの繁栄が去っていたとはいえ、フランドル文化の中心的役割が失っていなかったのであろう。

 さらに石橋を渡り、ベギン会修道院に出向いた。1245年にフランドル伯爵夫人によって設立されたこの修道院は、中世、信仰のために一人暮らしを選んだベギン会の女性が、閉じこもって住んでいた所だ。オードリー・ヘプバーン主演の「尼僧物語」の舞台にもなっていたのを思い出した。修道院も1998年、世界遺産に認定されている。

「尼僧物語」の舞台にもなったベギン会修道院

 現在はベネディクト派の修道女が住んでいる。彼女たちの服装は、15世紀当時と変わらないそうだ。ブルージュ旧市街の南の閑静なところにある。運河をわたって中に入ると、大きな楡の木が林立する中庭に出た。そこには修道女たちの小さな白い家々が並んでいた。敷地内には礼拝堂や博物館もある。

■美術館や博物館には名画の数々が展示

 中世の富は、また多くの芸術家を育み多様な文化を生んだ。その名残をとどめる美術館や博物館が随所にあった。グルーニング美術館もその一つだ。ヤン・ファン・アイクから現代絵画まで所蔵する総合美術館だが、個人の邸宅に飾っている絵を見に招かれたような趣があった。壮麗かつ重厚な宮殿風建築が多いヨーロッパの美術館は、時として威圧感を受けるのに対し、ここでは庭園の中につつましやかな建物が広がり、本当にくつろげる。

 切符売り場と建物がちょっと離れていて、切符を買ってからしばらく庭を歩いて建物に入る。これが、待ち焦がれた絵画と出合う前のちょっとしたプロローグになるのもいい。最初に導かれた部屋で、いきなりファン・アイクの《聖母子を崇めるヴァン・デル・パール神父》の名画が飛び込んできた。

ヤン・ファン・アイクの《聖母子を崇めるヴァン・デル・パール神父》

 名作《聖母子を崇める……》は、ひざまずく寄進者の真剣な表情が静かに座っている聖母の純粋さと調和し、崇高な写実描写に仕上がっていて、その表現力の非凡さに感銘を受けた。ファン・アイクを始めとする初期フランドル絵画は、この美術館の目玉だ。

 驚いたことにベルギー7大秘宝の一つとされるハンス・メムリンクの《聖ウルスラの聖遺物箱》(メムリンク美術館所蔵)が展示されていた。メムリンク美術館は、12世紀建造の聖ヨハネ病院を活用していて、当時改装で休館中のための臨時措置だとか。この辺は日本と違って、観光客のための手厚い対応に感謝した。

ハンス・メムリンクの《聖ウルスラの聖遺物箱》

 さらにうれしいことに、ピーテル・ブリューゲル(子)の《洗礼者ヨハネの説教》を始めとする近代から現代のベルギー絵画も数多く展示されていた。「ベルギーの巨匠5人」展には出品されないもののポール・デルヴォーの《セレニティ》ほか、ルネ・マグリット、ジェームズ・アンソールらの作品もあって見ごたえ十分だった。

ピーテル・ブリューゲル(子)の《洗礼者ヨハネの説教》
ポール・デルヴォーの《セレニティ》

 本館と別館の間にミュージアムショップと、ちょっとしたロビーがあるが、ここも面白い。窓越しには聖母教会の塔が見える。美術館にある絵と寸分違わない光景が窓の外に広がっている。残念なのはカフェがないことだ。ここでコーヒーやベルギービールが飲めれば最高なのだが…。

 街の中心に位置するマルクト広場は、青空マーケットで賑わっていた。マーケットをひやかしながら広場に面したカフェでコーヒータイムを取った。13世紀には毛織物商のギルトハウスが建ち並んでいた。現在もいくつかの建物と、西フランドル州庁舎やギルトホール、鐘楼が威容を見せている。

街の中心に位置するマルクト広場。鐘楼が聳える

 13世紀に建設された鐘楼は高さが83メートルもある。366段の石のらせん階段で登ることができる。ちょうどカリヨン(47個の組み鐘で重量27トン)が、すごい音で鳴った。カリヨンコンサートもありすばらしい音色を奏でるそうだが、遠くで聴いた方が情趣があると思えた。

 カフェでひと休みした後は、ブルグ広場へ向かう。かつてのフランドル伯の館(ブルグ)があったところで、ゴシック様式の建物群(市庁舎、古文書館、裁判所、聖血礼拝堂)に囲まれたこじんまりした広場だ。ここにはツーリストインフォメーションがあり、両替所やトイレも使えた。

ブルグ広場の雑踏
華麗な装飾が施された市庁舎
キリストの聖血を収めているという聖血礼拝堂

 歴史の舞台から取り残されたブルージュは、実際に旧市街地は空家だらけになり建物は軒並み幽霊屋敷のようになっていたらしい。中世が封印された廃墟に近い街になっていたという。しかし、この「死都」に惹かれた世紀末のローデンバックやクノップフの作品によって、まるで「中世のテーマパーク」として復活しはじめたようだ。

■運河の眺め、路地裏には「死都」の名残も

 中世以来の栄華を誇る静かな街は確かにヨーロッパには多い。しかし、中世の面影をそのまま残している街はそう多くない。ベルギーは、その中世的イメージと反して、ヨーロッパでイギリスに続いて産業革命を成功させ、早くから工業化が進んだ国である。また2度の世界大戦では、有数の激戦地となったため、多くの都市が破壊された。そのため中世以来の部分が残っている街は思いのほか多くはないのだ。

クルーズ観光の発着場

そんな中で、ブルージュほど広い範囲で中世的な雰囲気を残している街は、ベルギーにはないという。ヨーロッパの街の地図を見ると、その形状から中世以来の城壁に囲まれていた旧市街と、新市街の違いは明確に分かる。ブルージュの卵形をした旧市街は、現在の約12万人の人口規模からすると、非常に大きい。


運河から街を観光の船が出航

 他の都市では、市街地の中心部分の一部が旧市街であるのに対し、ブルージュは、市街地のほとんどが旧市街といってもよい。中世の繁栄と、逆にそれ以降の開発がなかったことをはっきりと示していている。

行き交うクルーズ船

 ブルージュの文化が爛熟期を迎えた15世紀、それはブルージュもその領域だったブルゴーニュ公国、ひいては、ヨーロッパの中世文化が最後の爛熟の花を咲かせた時期にあたり、この時期の美術、音楽は本当に魅力的だ。メムリンクなど初期フランドル絵画に彩られた15世紀のブルージュは、ヨーロッパ中世文化の落日直前の輝きを示していたようだ。

運河からの眺め

 ベルギーはフランス、ドイツ、オランダ、ルクセンブルクに囲まれ、北海を隔ててイギリスが控えている。その領土は絶え間なく他国に支配されてきた。しかしその立地に恵まれたため、今や首都ブリュッセルには、欧州連合EUの本部があり、一つのヨーロッパに向けてコスモポリタン都市として活気づいている。

 その目と鼻の先にある世界遺産のブルージュは、今後ますます観光開発が進むだろう。でも運河のほとりに高層ホテルなどは似合わない。できぬ相談かもしれないが、ローデンバックの言うように道に迷っても塔を目印にたどり着ける街であり続けてほしいと願わずにはいられない。週末には運河沿いの場所で開かれる骨董市が止まないことも。

緑の樹々が水面にも映り美しい運河

 旅人にとって、小さな街というのは、どことなく安堵感がある。夕刻、運河クルーズを楽しんだ。低い視点から街を見渡すのもまた一味違った眺めだ。『死都ブリュージュ』のあらすじが思い浮かんだ。

 沈黙と憂愁にとざされ,教会の鐘の音が悲しみの霧となって降りそそぐ灰色の都で、愛する妻を喪って悲嘆に沈む主人公が出会ったのは,亡き妻に瓜二つの女性だった。世紀末のほの暗い夢のうちに生きた作家が限りない哀惜をこめて描く黄昏の世界に万歳だ。

 いささか憂鬱な小説ではあったけれど『死都ブリュージュ』の舞台は、私の脳裏に生き続けている。

 私が訪れた8月は、観光シーズンだった。広場や名所は人であふれていた。『死都ブリュージュ』に描かれたあの光景はもはや遠い過去のものになったのであろうか。ガイドを通じ古老に質問をぶつけてみた。「裏通りの路地を歩いてごらん」と、ぽつりと語った。

 陽がかげり始めたころ、裏通りに足を踏み入れた。人気のないひっそりとした路地が続いている。新しい建物はなく、庭の手入れも行き届いていない。こんな路地を歩いていると、いつしかローデンバックや画家のクノップフが歩いた時とまったく同じような静かで沈んだ空気が流れているのを感じた。

石畳がよく似合い、中世の面影を伝える世界遺産の街ブルージュ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?