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未踏の地、アフガニスタンで政変〜バーミヤン大仏破壊から20年の今後は〜

 戦乱のやまないアフガニスタンでアメリカ軍の撤退に伴い、タリバンの侵攻が急テンポな展開となり、政府が崩壊した。タリバンと言えば、バーミヤンの大仏を2001年に爆破したことは記憶に生々しい。その直前、シルクロードを研究テーマにしていた私は隣国のウズベキスタンやパキスタンまで行きながら、当時の政情から足を延ばせなかった思い入れの地であった。その後、現地を何度も訪ねたことのある知人との交流や、流出した文化財の展覧会などを通じ、未踏の地ながら、その動向に関心を寄せてきた。タリバンが二度と同じ道を歩まないことを願いつつ、私の知るアフガニスタンの情報を緊急報告しよう。

■タリバン政権下、隣国から臨む

 アフガニスタンは1978年にクーデターが起き、旧ソ連が軍事介入。89年にソ連軍が撤退するものの、内戦を経てタリバンが支配域を広げ、96年に政権を樹立した。2001年の米同時多発テロ後、タリバンが国際テロ組織アルカイダのビンラディン容疑者をかくまったとして米軍などの攻撃を受け、政権を追われた。しかし反政府勢力として政府軍と交戦を続け、今回政権を奪取したのだ。


 私がアフガニスタンに注目したのは、インドから中国を経由して日本に伝わった仏教伝来の道にあり、かの玄奘三蔵が7世紀の中国・唐からインドの天竺へ求法の旅の途中、ヒンドゥクシュ山脈に聳える大仏を仰ぎ見たことにもよる。玄奘は『大唐西域記』の中で、「石王城の東北の山の隅に立仏の石像の高さ百四、五十尺のものがある。金色に輝き、宝飾がきらきらしている」と記していた。


 朝日新聞社の文化企画の仕事に携わっていた時、1999年の創刊120周年記念プロジェクトに「シルクロード 三蔵法師の道」をテーマにした学術調査や展覧会、シンポジウムを提案し、採用されたことが、端緒であった。価値観が揺らぎ混迷していた20世紀末、玄奘の生き方を検証し、「アジアの世紀」とされる21世紀に向けて、指針となるべきメッセージを発信できれば、といった趣旨だった。


 タリバン政権下の1997年2月、考古学者の加藤九祚さんが発掘調査を続けていたウズベキスタンの仏教遺跡を訪ねた。この遺跡は軍事基地内にあり、周囲を鉄条網に囲まれていて、特別許可なく敷地内に入ることができない。この丘陵地から望めるほど近くのアムダリヤ川を渡れば、アフガニスタンだ。この大河に両国を結ぶ「友好の橋」が架かるが、通行止めだった。ソ連軍が侵攻した時は、この橋を渡った。

01 アムダリアウズベキスタンの丘陵地から望むアムダリア川。大河の向こうはアフガニスタン


 1997年7月から1年8ヵ月かけて断続的に実施した朝日新聞の学術調査でもビザを入手していたが内戦激化で断念した。2000年秋にパキスタンを訪ねた際、アフガニスタンとの国境にあるカイバル峠まで出向いた。峠を下れば入国できるが、警備が厳しい。途中の空地にはアフガニスタンからの難民を数多く見かけた。

02 カイバル峠パキスタンの国境にあるカイバル峠。峠を下るとアフガニスタン

■大仏破壊後に世界文化遺産登録

03 バーミヤン

アフガニスタンのヒンドゥクシュ山脈の渓谷地帯に彫られた西大仏


 2001年2月、タリバンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとして、バーミヤンの大仏を破壊すると宣言した。この声明に対して、世界各国の政府およびユネスコなど国際機関に加え、イスラム指導者たちさえからも批判が寄せられた。しかし運命の3月12日、2体の大仏は世界中の非難の声に背を向けて爆破された。この破壊の様子は撮影されており、「アッラーフ・アクバル」(「神は偉大なり」の意)と唱えている中、崩壊する大仏の映像が世界に配信された。

 ソ連軍の侵攻から20数年後、今度はアメリカが同時多発テロ事件の報復を理由に、アフガニスタンに侵攻したのだ。ついにタリバン政権は崩壊したが、抵抗勢力は山岳地帯に立てこもり、現在まで戦火は絶えていなかった。

 アフガニスタンでの内戦が一応の終結を見た時期、遺跡の修復と保全に対して世界的な支援の機運が高まった。2002年1月に東京で、5月にはカブールで、アフガニスタン復興支援国際会議が開催され、この会議の席上、日本政府はバーミヤン遺跡の保全のためユネスコに資金を拠出する意向を表明した。こうしてバーミヤン遺跡の保存・修復の活動は、2002年度以降、毎年ほぼ1億円の「ユネスコ文化遺産保存日本信託基金」によって実施されることになった。

 そして2003年7月、バーミヤン渓谷の建造物群は、世界文化遺産に登録された。と同時に危機にさらされている遺産としても登録された。さらに考古遺跡の周辺も含め「文化的景観」として保存されるべきことが確認されたのであった。

06  バーミヤン全景

世界文化遺産に登録されたバーミヤン渓谷の全景
(2003年、前田耕作さん提供)


 これより先、ソ連軍の軍事介入とそれに続く内戦や内乱後の1995年に現地に入った朝日新聞ニューデリー支局の宇佐波雄策記者が『アエラ』の6月19日号で戦火に傷ついたガンダーラの仏たちについてレポートしている。宇佐波記者は私の広島支局時代の同僚で、当時から事件現場への潜入取材を試みていた。

 宇佐波レポートによると、高い値がつくガンダーラ仏で持ち出せる大きさのものはすべて運び出され、ギリシャの神々を刻んだ金貨や銀貨など4万枚も有していた古代コインは、ことごとく略奪された。さらに宇佐波記者が驚いたのは、展示ホール中央の扉を開け2階に上がると、もうそこは柱と梁を残すだけのも抜けの殻の展示室になっていた。2階は屋根もなく、紺碧の青空が望め、柱のかなたに雪をいただいた青いパグマン山脈がそびえていたそうだ。

07 博物館内部

柱と梁を残すだけで青天井のカブール博物館展示室
(2003年、前田耕作さん提供)


 こうして多数の文化財が破壊や略奪され不法に国外に持ち出された。その一部は、ブラックマーケットなどを通じてわが国へも流出し、美術商やコレクターらに保持されていた。シルクロードを生涯のテーマとして描き続けた日本画家でユネスコ親善大使を務めていた故平山郁夫画伯は、これらの「流出文化財」を「文化財難民」と位置づけ、ユネスコの同意のもと、流出文化財保護日本委員会を設立し、再びアフガニスタンに平和と安定が戻るまで各国で保護することを提唱した。

04 バーミアン大石仏を偲ぶ

平山郁夫《バーミアン大石仏を偲ぶ アフガニスタン》
(2001年、平山郁夫美術館蔵)

05 破壊されたバーミアンの大石仏

平山郁夫《破壊されたバーミアンの大石仏》
(2003年、平山郁夫美術館蔵)


 時を経て2016年、九州と東京の両国立博物館で特別展「黄金のアフガニスタン-守りぬかれたシルクロードの秘宝-」が開催された。「流出文化財」は、《ゼウス神像左足断片》(前3世紀、アイ・ハヌム出土)や《カーシャパ兄弟の仏礼拝》(2~3世紀、ショトラク出土)など、かつてアフガニスタン国立博物館に所蔵されていた国宝級の美術品の他に、破壊されたバーミヤン大仏の壁画や周辺の窟から削り取られた壁画断片も含まれ、102件に上った。

10 ゼウス神像左足断片

《ゼウス神像左足断片》(前3世紀、アイ・ハヌム出土)

11 カーシャパ兄弟の仏礼拝

《カーシャパ兄弟の仏礼拝》(2~3世紀、ショトラク出土)

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左)《冠》(1世紀)   右)《襟飾》(1世紀)

14 天翔る太陽神

想定復元された《バーミヤン東大仏天井壁画 天翔る太陽神》


 この展覧会を機に、流出文化財保護日本委員会は、アフガニスタン政府の閣僚級の要人を招き、文化財難民の母国返還式を執り行い、返還された。

08 アフガニスタン国立博物館

戦乱で荒廃したアフガニスタン国立博物館の入り口
(2003年、前田耕作さん提供)

09 再建されたアフガニスタン国立博物館

再建されたアフガニスタン国立博物館
(『黄金のアフガニスタン』展図録より)

■難民救済や文化財保護へ知人らの貢献

 タリバンが大統領府を掌握し勝利宣言のニュースを報じた日の朝日新聞の社会面に兵庫県宝塚市の西垣敬子さんの記事が掲載された。フェイスブックなどで現地と連絡を取ってきたが、急激な状況変化に戸惑っている。


 西垣さんは1993年夏、東京で何気なく立ち寄った写真展で、ソ連軍侵攻の生々しい戦場の光景に衝撃を受けた。「平和に暮らす私たちが、戦争で苦しむ人たちに何かお役に立たなければ」との思いにかられた。翌年、自宅に「宝塚・アフガニスタン友好協会」を設立した。

15 西垣さん

「毎日国際交流賞」の受賞を喜ぶ西垣敬子さんと支援者ら
(2006年9月、毎日新聞大阪本社)


 それ以降、現地に単身で乗り込み、住民らの希望を聞き、孤児施設の少女の義足や、学校用テント、史集用の手回しミシンなどを贈り、女子寮の建設など援助活動を続けてきた。こうした活動に共鳴した私は、共生をテーマにした拙著『無常のわかる年代の、あなたへ』(2008年、三五館)の序章で、「国境を超えて心の家族がいる―アフガン難民救済へ一主婦の献身」として紹介した。


 今年85歳になる西垣さんは以前のタリバン時代も含め、20年余で40回以上渡航をしていたが、高齢化や治安問題などで2016年からは断念。しかし現地の人が描いた細密画などを販売し、資金カンパを続けている。


 タリバンは極端なイスラムの教えから女性の就労や教育を禁じてきた。西垣さんは「タリバン政権の時代から20年も経ています。国際社会の反発もあり、以前のようにはならないと思う。そう信じたい」と話す。

18 女史寮

完成した女子寮に集まった国立ナンガルハル大学の女子学生と記念撮影の西垣敬子さん


 一方、和光大学名誉教授で日本イコモス副会長や文化遺産国際協力コンソーシアム委員などを歴任した前田耕作・東京藝術大学客員教授は、バーミヤンの仏教遺跡を中心に、アフガニスタンの文化財保護事業に携わってきた。インドの旅などで同行し、20年来の交誼を得ている。


 2004年には、自費でアフガニスタン文化研究所を立ち上げた。研究所では、会報「NEWS LETTER」を昨年まで通巻50号を発行し終刊した。しかし情勢悪化やコロナ禍の閉塞状況から今春復刊している。アフガニスタンの最新ニュースを4ページの紙面に盛っている。全ページがカラーで、表紙には、バーミヤン渓谷をはじめ美しい自然景観、カブールの街並み、各地に点在する遺跡、さらに子どもたちの表情が紹介されている。私は第1号からの読者で、一度も行ったことのないアフガニスタンがとても身近に感じられた。

17 刺繍

テントの中で刺繍をするアフガニスタンの女性
(1996年、ジャララバード)

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義足を装着してもらうアフガニスタンの少女


前田さんの『アフガニスタンを想う 往還半世紀』(2010年、明石書店)の最終章は次のような文章で結ばれている。

 アフガニスタンは終息しない戦火の中で疲れているが、世界に誇る文化と歴史を持った国であることを忘れてはならない。フランスの神話学者デュメジルは、神話を忘れた民族は死んだに等しいといったが、民族に生気の源である歴史と文化、国の誇りを忘れ去った国は魂を失った人間に等しいといえる。アフガニスタンの「民生」から文化への寄与をぬき去ったとしたら、それは「民死」であって「民生」とはいえない。

 「歴史と文化が生き残れば、国もまた生き残ろう」。復興真っただ中の2002年頃、廃墟となったカブール博物館の入り口に掲げられていた言葉だ。前田さんが2006年3月に訪れた時には、再建された博物館の入り口に置かれた石碑に刻まれていた。

19 前田先生

石窟内で壁画のコピーを壁画に合わせ調査する前田耕作さん
(2004年、本人提供)


 カブール博物館の破壊と略奪のことは前述したが、博物館の周辺は最後まで激戦地となり、徹底的な破壊をこうむり、戦争直後、建物の痕跡といえばこの博物館の外壁と、200メートルほど北にあった考古学研究所の玄関を支えた2本の柱のみという惨状だった。誰も訪れる者のいない博物館の入り口に、民衆によって掲げられたこのメッセージは、戦後の荒廃の中で、文化に魂の糧を求め生き抜くアフガニスタンの人びとの決意を示すものと受け取られ、感動を呼んだのである。


 国立博物館は、いまは再興され、「流出文化財」も相当数戻っている。やっと平穏になったかと思われていたが、またまた政変だ。権力を掌握したタリバンは初めての記者会見で、イスラムの教義の範囲内で女性の人権尊重などを表明した。今回は国際社会の批判を回避する姿勢が見受けられるが、その一方でデモ隊に発砲するなどの報道もある。かつてバーミヤン大仏を破壊するなどの蛮行の過去があるだけに、不安が拭えない。そして何より文化をないがしろにすれば国も滅びることを歴史の教訓とし、タリバンの指導者たちは胆にて銘じてほしい。

20 戦車と子供

タリバンが放置した戦車で遊ぶ子どもたち(2012年、前田耕作さん提供)

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