ドラゴンボールについて思った事

ドラゴンボール超のOPで「新たなステージは神に挑む場所」と言っているのを見て、「破壊神の前に界王神もいたし、その前にはカリン塔の上に神様がいたし、悟空ってずっと神に挑んでない? 今更じゃない?」と思った。

以前同じような事を北斗の拳でも思った事がある。最初にシンが「キング」と呼ばれていて倒すのだが、次の強敵は拳”王”で、名前までラ”オウ”だった。その次も「帝王」と呼ばれるこれまたキングが相手で、その次に目指すのも「天帝」なのである。ず~~っと一貫してストーリーの道筋は権力者を倒す構図で、ストーリーを一言で表すと「打倒権力」になる。登場する男たち全員が愛に対してすごく真剣な所が北斗の拳のすごい所なので、テーマとしては「愛」になるんだろうけれど。

これに対してドラゴンボールは最初の敵がピラフという時点で権力にあまり関心がない。最初から最後まで一貫して変わらないのは悟空の修行に対する態度などである。じっちゃんに教わり、亀仙人に教わり、カリン様に教わり、神様に教わり、死んだ後も界王様に教わり、異星人にフュージョンを教わり……と、「目上の人に挨拶に行って勉強させてもらう」という流れがとにかく全くブレない。最終話を終えて今なおビルス様と修行中なのである。これは悟空以外のメイン戦士にもほぼ全員に言えることで、学べる先輩がおらず、権力を打倒した後はふらっと消えてしまうケンシロウとの大きな違いである。「向上心」がドラゴンボールの根幹なんだと思う。そう考えるといい漫画が流行ったものだと思う。

おわり。
以下、余談。

他の漫画もこういう風に一言で表せるほど一貫している部分って
あるかなあ、と思ったらけっこう見つかったので表記してみたい。

例えばジョジョの奇妙な冒険だと権力意識も向上心もあまりなくて、第一部からずっと何かの「謎」を追っている。ラスボスの姿や能力や目的はもちろん、どんな小さな戦闘でも必ず敵側に謎があって、それを見つけなければ不利に、みつけられれば有利になるという逆転劇が多く、「謎」が全ての基準になっている。荒木先生はよっぽどミステリーが好きなんだと思う。

聖闘士聖矢もまたぜんぜん違う。出てくるのは格上か格下かという男の「格」の問題である。戦う前から「顔がいいか」とか「考え方が立派か」とか、色々な理由で既に格付けが済んでおり、「格が違うんだよ!」と格を見せつける為だけに戦闘が付いているきらいがある。基本は主人公側の「大儀」という格と敵側の「実力」という格の勝負なんだけど、「どちらが上か!」という勝負の時に「考え方が変わった」「男らしい所を見せた」等の格の変動が起こる事で格の計算が難しくなるあたりが見どころだと思っている。女性は仮面という差別があるが、「男の格」の管轄外でも仮面を付ければ参加できるというのは、けっこう寛容な処置なのではと感じている。

西尾維新さんの作品だと常にほとんどのキャラクターが本心を隠していて、それを最後まで自分から吐露しない人もいて、後で他の人がそっとヒントをくれたりという事が多い。全体通して「目の前の人は本当は何を考えているんだろう?」という意識で楽しむのが前提になっている節があり、他の漫画以上に人間の「内心」が常に中心にある。こんな事を考えながら生きている作者は、きっと頭がいいんだろうなあと思う。

8月のライオンだと人間の弱さみたいな物を深堀りする話が多くて、「どんな大人でも本当は一人残らず弱い! 」というチカ先生の信念を感じるというか、間違いなく「弱さ」がテーマの一つみたいな気がしている。

島本和彦先生は「人生の理不尽」以外を描いているのを見た事がない。
エースをねらえとかボトムズとかエリア88とかポケットの中の戦争とか、人生の無理難題を主軸に据えている作品はそれ自体がテーマになってしまうので、「人生で捨ててはいけない物ってなんだろう?」「理不尽に耐えるには?」みたいな重い主題に勝てるほど作者の人間性が表に出てこないっていうか、それが作者の人間性みたいな気がする。

手塚治虫先生は「テーマを変え続ける」のがテーマみたいな所があって、
そんな人が最初に出てきたのも凄いんだけれど、ピカソもそういう人なので天才になりやすい人間性なのかも知れないと思いました。

以上です。



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