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「お疲れ様でした」が言えなかった。

バラエティ番組の制作現場には、始業のベルも終業のベルも基本ない。色んな人が「おはようございますー」とフラッと現れて、「お疲れ様でしたー」とフラッと去っていく。

20代のころ、会社から帰るタイミングがめちゃくちゃ難しかった。仕事量が多いので基本的に毎日深夜まで働いていたのだが、たまに早く仕事が終わっても、他のスタッフがまだ仕事をしている手前、先に「お疲れ様でした」と会社を出ることができなかった。

周囲の目を気にするあまり、僕はダミーのカバンを用意するようになった。大きなリュックをデスクに残して、さも「会社のどこかにまだいますよ」の雰囲気を出したまま帰宅したりご飯を食べに行ったりしていた。でも次の日の荷物が多くて、結局違うリュックで出社して「リュックを2個かついできた奴」みたいになったこともあった。

入社当時の上司が「やって覚えろ」というタイプだったので、AD経験が少ないままディレクターになった。25歳の時にある番組のチーフになったのだが、周りは年上ばかりでとにかくやりにくかった。40歳のディレクターが作ってきたVTRをチェックしても、何も言うことがない。「これでええやん」と心から思った。

別のディレクターのVTRをチェックしたとき「ちょっとここカットが短いので、伸ばせますか?」と言ったら「ここは、わざと短くしてんねん」と一蹴されて、そのまま放送された。

ただ、それも仕方ないことだと自分でわかっていた。なにしろ経験が少ないし、能力が低い。「山内の言うことを聞いてやろう」と思わせる何かが必要だと思い、僕がやったのは「誰より早く会社に来て、最後までいる」という泥くさい作戦だった。ただ、それが功を奏したのか単純に能力が上がったのかわからないが、徐々に話を聞いてもらえるようになった。

別にブラック自慢がしたいわけでもないし、そんなことをした気力と体力のある自分をアピールしたいわけでもない。他のやり方が思いつかなかっただけだ。リモートワーク全盛の今の時代では余計に通用しないだろう。リモート会議でパソコンの画面に毎回最後まで残っていても、絶対に誰も何も認めてくれない。

30代になってそれなりに立場も上がってきたことで「お疲れ様でしたー」と声をかけて堂々と会社から出られるようになった。あと上が帰らないと下が帰りにくい、というのを自分が実感していたのもあった。ダミーのリュックもいつの間にか使わなくなった。

ある会社には「終礼での1分スピーチ」というものがあるらしい。帰宅を促し、残業を減らすための取り組みで、毎日交代で色んな人が話すという。それを聞いて思った。

「嫌すぎる!」

僕ならどんな話をしても上滑りする自信がある。スピーチをしたくなくて終礼前に帰ってしまうかもしれない。残業を減らすという意味では成功している気もするが。

でもせっかくなので、2021年の8月に自分にスピーチが回ってきたら何を言うか考えてみた。時刻は午後6時。まだ明るい8月の日差しに照らされたオフィスで、数十人の前に立った男が話していると思って、以下をお読みください。

「皆さん、マリトッツォというスイーツをご存知でしょうか。今年に入って大ブームになっている、ブリオッシュ生地のパンに生クリームがたっぷり入った、イタリア産のお菓子です。僕は令和喜多みな実の河野くんがつぶやいているのを見て知って初めて食べたのですが、確かに美味しかったです。でもその時、河野くんにツイッターで自分から絡んでしまったことで、違うマリトッツォを食べたことをツイッターでつぶやきにくくなってしまいました。”河野くんに構ってほしいやつ”と思われたくないからです。河野くんはいいやつなので、きっと『山内さん、もういいですよ!!』と『!』を多めにつけてツッコんでくれるでしょう。でもなんか申し訳ないなと思ってしまいます。そしてツイッターで芸人さんと絡むと、思い出すことがあります。昔ツイッターで『質問箱』が流行ったときに僕の元に届いた『芸人さんと絡んでいる暇があったら、面白い番組を作ってください。藤井健太郎さんが芸人さんとツイッターで絡んでいますか?』というメッセージです。皆さんツイッターで芸人さんと絡むときには気を付けてください。あとマリトッツォを食べる時にこの嫌な感じのエピソードも思い出してください。お疲れ様でした!」

うーん。

やはりスピーチが回ってきた日は、終業時間までに仕事を終わらせて早めに帰宅する方がよさそうです。ただ「お疲れ様でした」は自然と言えるので、よい制度かもしれません。


※この投稿は高宮フミさんからのお題「終礼時の1分スピーチ」を元に書きました。ありがとうございました!