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【少年・青年・中年・老年小説集】「小心地滑国内旅行記…〈秩父への旅④〉」

ユキオは待望の旅館の夕食を前にしていた。

まだ午後の5時だった。
広い長方形の部屋の卓袱台には、
品数の多い、いかにも旅館の夕食が並んでいた。

布団はすでに敷かれていて…
鉱泉への入浴も済んでしまったユキオは、
食べて寝るだけという…
ユキオがもっとも幸せを感じる状態になっていた。

…はずであった。

まったく食欲はない。
チェックインからのこれまでのことを、
ユキオは思い返していた。




午後4時くらいに旅館に戻ってきて
チェックインしたユキオは、
その場で1万2000円を払った。
後払い最初はいわれたが、
追加料金等の精算はあとですることにして、
先に料金を払ってしまいたかったので
強引に前金を受け取ってもらった。

そのときに、獅子鍋を食べたいと伝えたのだが、
「昨日で獅子鍋は終わりました」
とのことであった。
(昨日来たら食べられたってことか?)

気の小さいユキオは、
そうですかとだけ言って、
あとは旅館での注意をただきいていた。

部屋に案内されると、やたら広い部屋で少し驚いた。

一人部屋ではなかった。
8人くらいが泊まれるような広い部屋…
案内してくれた旅館のおばさんが出ていくと、
ユキオは、ぐったりした。

疲れていたので、
すぐに布団だけ敷いてもらった。

「夕食は何時にします?」
「いちばん早い時間はいつですか?」
「今日なら午後5時にはできますけど…
どうしますか?」

いまはまだ午後4時すぎ。
一回、入浴して午後5時ならいいと考えて、
ユキオは、午後5時に夕食を用意してもらうことにした。

部屋で食べられるそうなので…1回目の入浴をして、
布団に寝転んでいようと思った。


おばさんが出て行ったあと…
外の景色をみようと、障子を開けてみた。

目の前に自動車のテールランプが光っていた。
障子をすべてあけてみたところ、
この部屋が半地下のような状態だということに気づいた。

いちおう、透明ガラスだったが…
外の景色はわずかで…しかも駐車場に面していて…
夕方のチェックインの時間帯だったこともあり、
ユキオの部屋の外の景色は…
あっという間に自動車のお尻しか見えなくなった。

あまりのことに、ユキオはショックを受けて、
障子もカーテンも閉めてしまった。

ユキオは部屋を見渡した。
気になったので、掛け軸の裏を確かめる…
三つほどある掛け軸の裏には、
三つともお札が貼ってあった…

部屋には冷蔵庫がない…
おかしいなと思っていると、
部屋の片隅にとびらがあり、
開けてみた。

すると、細長い部屋があって
そこに冷蔵庫が置かれていた。

ユキオは旅館で缶詰を開けて食べたり、
缶ジュースだとかを冷蔵庫を飲むことに
憧れがあった。

自由にお金を使える今は、
昔存分にできなかったことをしたいと思っている。
「旅館の冷蔵庫の缶詰に缶ジュース」を
好きなだけ開けて食べ飲みすることを、
この旅でもやってみたいと思っていたのだ。

冷蔵庫のラインナップでその旅館のセンスもわかる…
ユキオはそんなことを考えていた。

とはいえ、今回はそのモチベーションは著しく下がっていた。

せっかくなので、冷蔵庫を開けてみた…
あれ?
何も入っていない。

冷蔵庫を閉めて体を起こしたとき、
この場所が自炊施設なのだと気づいた。

あれ?
ひょっとして、
自分が泊まっている部屋は
「湯治客用の部屋」?

反射的に廊下に出たユキオは、夫婦の湯治客と
おぼしき二人に会い、思わず会釈をした。

部屋から飛び出してきた若い客を見た夫婦は、
一瞬驚いた感じだったが…
何事もなかったかのように、
奥の入浴場に歩いて行った。

喉が渇いた。
ユキオは、部屋に帰って小銭を取り出し、
フロントにあるであろう売店に行ってみた。

しかし…この旅館には…売店がないのだ。
え?
なんか買えないのか?

見渡してみてもドリンクの自動販売機しかない…
なんてさびしい旅館なんだろう…

自動販売機も8セレと呼ばれる、
250mlの缶しか入らない〇リンの自販機しかない。
あとは〇リンのビールの自販機のみ。
…よくみると、小瓶のウイスキーの自販機もあったが…
食べ物は何もなかった…

もちろん、卓球場もビリヤード台もカラオケも土産物コーナーもない…

意気消沈したユキオは、チェスタを1本買って
部屋に帰った。

玄関にある、この旅館のパンフレットがあったので、
それをもってきてチェスタグレープを飲みながらあぐらをかいて
座布団を4つくらい重ねた上に座りながら見た。

料金は…1室8000円と書かれていた…





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