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【少年・青年・中年・老年小説集】「小心地滑国内旅行記…〈秩父への旅③〉」

ユキオは、Y川という川のそばの
Hという鉱泉旅館に泊まることになった。

秩父鉄道秩父線の大野原駅まで電車に乗った。

駅から歩いて20分から30分かかるということだった。

秩父の観光用の無料の地図と、
手書きの案内図をもらった。

秩父は思ったより山奥という感じではなく、
平地が広がっている。
眺めは、遠州出身のユキオには
さして興味を引くものはなかったと言うしかない。


ユキオは旅慣れしていないせいもあって、
食べ物や飲み物も買わないで宿に向かった。

元々、お菓子よりは食事をしたいたちであった。
旅館の売店もたのしみにしていたこともある。

慣れない土地のせいか、
地図よりも遠く感じる。
歩いても歩いてもなかなか目的地につかない。


Y川という川幅がそんなに広くない川を渡った。
やはりというのか…ユキオは道に迷った。
同じところを繰り返し通っているような気になり、
仕方がないので、通行人のおばさんに旅館の場所をきいてみた。

「ああ、そこですよ」

丁寧にお礼を伝えたが…同時に動揺に襲われて、
顔がこわばったままおばさんと別れた。

確かに川沿いにある。
しかし、ユキオは旅館とは気づかなかったのだ。

「こんなに古い旅館だったのか…」

古いというより、半分は廃屋かと思い、
まさかここではないだろうと通り過ぎていた。

気を取り直して、
ユキオは旅館の玄関を探した。
古いが、そこそこ広いのかもしれない。

石垣を回り込んでみたら、
玄関が見えた。
こうやってみれば、
裏側の廃屋のような建物は見えなくなり、
旅館らしい雰囲気もあるにはある。


今は午後の3時前だ。
昼前に西武秩父駅について、
宿泊の交渉をして、
安田屋まで行き、休業日と知って
駅まで引き返したのが午後2時近く。

おにぎりとコメッコとキットカットと
ラムネの昼ごはんを食べて大野原駅に着いたのが
午後2時半くらい。

30分くらい歩いたわけだ。

しかし…チェックインの時間は確か午後4時だった。
まだ1時間早いが…旅館に入ってみることにした。

「ごめんください…駅のAで紹介されたコグレですが…」

誰も出ない。
大したことをしていなかったが、
ユキオは疲れ切っていて…
上がり框に腰掛けてぐったりした。

5分くらい、座っていると…
玄関に眼鏡をかけたおばさんがやってきた。

ユキオは立ち上がって、
なぜか緊張して、どもりながら事情を伝え
予約票をみせた。


まったくほほえみもないままのおばさんは、
「午後4時に来てくださいね」
と、ユキオの心をさらに疲れさせる一言を
抑揚のない調子で告げた。

気圧されたユキオは…
黙って玄関から出て行った。

後年のユキオなら、即時にキャンセルして
お金は払わないことを断固として伝え、
帰っていたことであろう。

しかし、当時のユキオは
こういうときに弱気になって
周囲のいいなりになるのが常であった。


ユキオはますます疲労感と不快感を募らせながら、
旅館の周りを歩き出した。

近くに杉林があった。
せっかくなので、秩父を満喫しようと
気分を入れ替えようとがんばってみたのだ。


しばらく林道のような杉林を歩いてみた。
しかし、時期が悪かったのか…
ユキオは重度の花粉症もちでアレルギー体質。

ものの5分でくしゃみと鼻水症状が出てきた。
目もかゆい。
もう杉花粉はおわったんじゃないのか?
そう思ったのだが…実際にアレルギー症状はひどくなった。

このどうしようもないだるさも、
もしかしたらアレルギー症状なのか?
事実は不明だったが…この旅はさらに
ユキオの大きかった期待を裏切ってきた。


ユキオはスケッチブックと色鉛筆を持ち歩いている。
せめて、旅の記録だけでも書いておこうか…
そう、一瞬思ったが…風景が田舎出身のユキオを
わきたたせるものは目に入らなかった。

今日は4月1日だ。
エイプリルフールだ。
それがどうした。
だから、ひどいことが起こるのか?
そんなわけあるか。

時期的に桜もまったく咲いていない。
梅もない。
確かカタクリの花が有名だったはず…
しかし、ユキオはどれがカタクリなのかもわからなかった。


どう、時間をつぶしたのか覚えていないほど、
ユキオは落ち込んでいた。
気づくと午後4時をとっくにすぎている。

廃屋のような旅館に、
チェックインするために
ユキオは戻っていった。



【©tomasu mowa 2024】











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