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#2 「鈍感」から「繊細」に思いを巡らす

前回の投稿から話を広げたい。
キーワードは「繊細」である。

繊細:感情などがこまやかなこと。
また、そのさま。

私自身の性格を表現する際、目の前の出来事へのリアクションを表す言葉として「鈍感」がふさわしいとお話しした。では反対に、私には物事に細やかに反応できる「繊細」な部分はあるのだろうかと問いかけた際、ちゃんとその感覚は存在した。

それは何かを学ぶ時に、重要部分というより細部を気にしてしまう、こだわってしまうという感覚である。

基本的に私は新しいことを勉強し知識を得ることが好きである。ただ、勉強する上ではまず、体形的に全体像を知るということが大事だとわかっていながら、細部を何よりも重視してしまうのだ。

例えばこんな時だ。

学校で、世界地図の国名を覚えなければいけないという課題が与えられたとする。確認テストは1週間後にあり、主な国の位置とその国名が出題される。

テスト勉強にあたり、私は地図を眺めるのは好きなので、この分野の勉強は苦にならない。
アメリカ・ロシアといった大国はすでに知っているので改めて覚え直す必要はない。中くらいの面積の国々についても、へえ〜この国はここね〜と難なく流していく。

ところがある程度まで来ると、テスト範囲ではない、面積が極端に小さい国がどうしても気になってしまう。

地図を拡大すると見えてくる、こんなところに国がある!と嬉しくなる国たち。ヨーロッパのスイスとオーストリアの間にあるリヒテンシュタイン、フランスとスペインの間にあるアンゴラ共和国などなど。

それらの国の基本情報・主要な産業などをひととおり調べ、ふんふんと納得する。さらには、そんな直前まで知りもしなかった国に対して、周りにある自分の国よりも大きな国をどう思っているんだろう、いやでもきっとこの国にしかない良さってあるんだろうな、などと勝手に思いを馳せてしまう。

そうこうしているうちに、覚えなければいけない国たちをまともに覚えることもないまま、テストを迎えるのである。

そんな私の中の、主要ではない部分にこだわり気にしてしまう「繊細」のおかげで、学生時代はいわゆる優等生では全くなかった。

「知る」ことは好きなのに、「知る」で得たことを発揮する機会であるテストでは空振りばかり。そういったジレンマからも、私ってダメなのかな?という劣等感は生まれるのかもしれない。

だけれども、細部にこだわることで得た小さな知識たちは、学生を終えた今でも忘れることはなく、私の生活の端々で確かに毎日を豊かにしてくれている。

テストというものが人生に大きく関わっていた時期を抜けた今の私は、点数で人間が比べられることに疑問を抱いていた過去の私を、その感覚は間違ってないから大丈夫よ、とハグしてあげることができる。

「繊細」は「鈍感」のように表立って現れることはあまりなく、むしろ見逃されてしまうことの方が多い。だけど、ちゃんと気づいて理解してあげないとその良さは報われないのだ。

その良さが個性となり、人となりを形成するのではないかと考えずにはいられない今日この頃。

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