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言葉の断食(人は2000連休を与えられるとどうなるか?/上田啓太)

京大を出て、芸人を志して上京するも夢破れた著者が、京都に帰り女性宅の物置に居候しながら暮らした6年間の記録。
社会との繋がりを断ち困窮した人間が狂っていく様子、または映画『キャストアウェイ』のように一周してタフになっていく様子が描かれていると予想していたが、この著者は意外にも健康的に生きて思考を深めていく。
おそらく2000連休を過ごした環境のうち
・住居に他の人間(女性1人)と猫がいた
・一応は作家的な仕事を続けていて、月10万そこそこの収入を得ていた
という要素が大きいと思う。
一人暮らしで一切の仕事をしていなければ、人はもっと狂うだろう。

著者によると、解放感を味わえたのは束の間で、将来の不安に苛まれ、ネットにのめり込んだ後には、図書館で本を読んだり運動したりと意識して健康的な生活を取り戻そうとする。そして、過去を思い出しては記憶のデータベースを作り始める。(このあたりザ・理系)
面白かったのは、ネットか本かに関わらず「言葉とは食べ物のようなもの」として言葉の断食を試みるくだりだ。

2,3日で分かりやすく変化が起きた。頭の中が静かになるのだ。いかに日々、食べた言葉を消化することに頭を使っていたかを実感した。食べる言葉の量を減らすと、頭の中を流れる言葉の量も減る。思考と呼ばれるものの大半は、じつは食べたものの消化で、食べる言葉の量を減らすと思考の量も減るらしい。
(略)
人はたいてい、読んだそばから文章の大半を忘れていて、面白かったところや疑問に思ったところ、腹が立ったところなど、印象に残った部分だけをくちゃくちゃと頭の中で噛みしめているものだが、そのプロセスを体感した。食べた言葉が思考を作る。普通、このプロセスは無自覚で、人は気づかないうちに、どこかで耳にした言葉や、どこかで読んだ言葉を喋っているのだろう。

3年もすると、思考を深めるフェーズに入り、生活が現実感を伴わなくなり、他人を見つめるような目で自身を見つめるようになる。この後半は具体的な生活について猫が死んだ以外多くはふれられておらず、「考えすぎじゃない?」と心配になってくるのだが、あっさりとライターとして自活をはじめ居候をやめる(ように見えた)あたり、何も起きなかったというのが事実なのかもしれない。

社会人になってからの私の人生で最長の休暇は、転職の合間の1カ月だった。コロナ禍ということもあり、あまり人には会わずにひとりでカフェやパン屋を巡り、株価だけは毎日見て、オンライン英会話のレッスンを受けていたらあっという間に終わった。楽しい日々だったが、私は人生で初めて「フリーランスにはなれない」と自覚した。生身の日本人と日本語で話す機会にとても飢えていたからだ。

金銭的報酬は社会と繋がっている証左であるが、ボランティアや趣味コミュニティーであっても、社会と関わる実感を得られる限り、人は健康的に生きられるように思う。定年退職後には、ほとんどの人に何千、何万の連休が待ち受けている。その頃には誰も難しいことなど考えなくなって、健康と十分な貯蓄さえあれば、楽しく生きられるような気もするが、どうだろうか。

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