見出し画像

聖なる呪い(「ふつうの家族」にさようなら/山口真由)

東大→財務省→国際弁護士という超エリート街道をひた走ってきた37歳独身女性である著者は、「ふつうの家族」という聖なる呪いに苦しめられてきた。そんな著者が「ふつうの家族とは何か?家族とは何か?」という問いを、親子の定義や海外の事例などを交えながら紐解いていく作品だ。

結婚について

2015 年 6 月、アメリカ最高裁は同性婚を認容する歴史的な判決(オバーゲ フェル判決 )を下した。判事はこう言った。
「結婚よりも崇高な人間同士の結びつきなど存在しない。なぜなら、結婚は最も高次の愛、忠誠、献身、犠牲、家族を体現するのだから」

ところが著者が習った、ハーバード・ロー・スクールのハリー教授はこれをバッサリと斬る。

「結婚はね、お互いに対する権利と義務の束であると同時に、それに伴う無数の特典の集合体でもあるの。たとえば、結婚すれば配偶者控除を受けられる。相手の年金を受け取ることができる。相続税の優遇もある。そういう公的なものだけではなくて、相手のカードの家族会員になれる。会社の福利厚生の対象にもなるでしょう。結婚っていうのはそういうものよ。相手に対する権利と義務の束と、それに伴う無数の制度的なベネフィット、それを一緒クタにまとめたパッケージーそれが結婚。」

神聖な誓いじゃない。あなたをあなた以上の人間にするものでもない。
結婚を細かく紐解いてみれば、ロマンチックなものではなく日々の生活の集積がそこにあるだけ。これがハリー教授の結婚観である。

それでも、同性婚を希望して裁判で争ったカップルが望んだのは、単なる生活保障ではない。生涯を賭けた愛が社会的に承認されること、象徴的な意義だったはずだ。でも、社会から承認される方法は、「結婚」だけなのだろうか?

著者はここで「結婚をスタンダードにするのは止めよう」と訴えるのではない。自分の思うように生きることは誰にとっても闘いであると認め、「結婚したくてもできない」風を装うでも「結婚したくない」と叫ぶでもなく、自分の思うところを丁寧に伝えることが大事であると説く。

親子について

アメリカでは同性婚が認められ、マサチューセッツ州の出生証明書には「父」「母」に代わって「ペアレント1」「ペアレント2」と書かれている。一方で日本では同性婚が認められていない。

2002年、高田延彦と向井亜紀夫妻は、向井さんが子宮頸がんによって子宮を摘出した事情から、ネバダ州で代理懐胎に踏みきる。そして生まれた双子の赤ちゃんを日本に連れ帰った2004年、「実子」として提出した出生届を、品川区は受理しなかった。向井さん自身が産んだ子供ではないから、という理由だ。
夫婦は裁判を起こしたが、最高裁が下した判決は、双子を「実子」として認めないというもので、養子縁組という形で、代理懐胎者から向井さん夫婦が親としての地位を譲り受けるように、という結論になった。

言うまでもなく、アメリカは向井さん夫婦が親であると認めている。それならばアメリカの法律を日本に適用すればいいじゃないか、と思うのだが、現実問題として海外の法律を持ち込むことは難しい。

例えば一夫多妻制を認める国の、1人の夫と4人の妻の5人の集団がアメリカに入国したら、アメリカは1対4の夫婦関係を認めるのか?全員が配偶者控除を受けられるのか?答えはNoである。

家族はその国の秩序の根幹であり、それぞれの国がそれぞれの制度のなかで「家族」を認定し、「家族」にだけ与えられる特典を認める。親権に扶養控除、配偶者控除に扶養控除、児童手当に母子健康手帳ー誰を妻とするのか、誰を母とするのかは、それぞれの国がそれぞれの事情に従って決めるべきである。

点滅する結婚、家族

現在、結婚自体にも、法律婚、事実婚、パートナーシップと様々な選択肢があり、前述のハリー教授は”点滅する結婚”という概念を打ち出す。
「あなたは結婚していますか?」という問いに、「はい」か「いいえ」で答えられるシンプルな時代は終わった。
「この瞬間、この場所で、この権利や特典に関してあなたは『結婚』しているという扱いを受けますか?」
こう正確に問わなくてはならない。

さらには向井さんの事例のように、親子関係も”点滅する”。分娩、血縁、意思、機能として、親の類型は増えているのだ。
iPS細胞の技術を利用して、皮膚細胞から作り出した精子と卵子を掛け合わせて受精卵を作るというマウス実験は既に成功し、これが人間でもできるようになれば、同性カップルでも双方の遺伝子を受け継いだ子供が作れるようになるという。(倫理的な問題はあるだろうけど)
テクノロジーはとんでもないスピードで進んでいる。

結論、全ての答えは、時と場合によるのである。

親子という「身分」

「母のいない子」を生み出した向井さんの裁判について、なんて残酷な判決だろうと私は思っていたが、著者の見解にハッとさせられた。

向井さんと双子ちゃんには涙を呑んでもらいながら、彼ら(日本の最高裁)
はほかの多くの子どもたちを救おうとしたのだ。つまり、この事案の妥当な解決を犠牲にしながら、もっと大きな秩序を守ろうと彼らは考えた。そこまでして、彼らはなにを守りたかったのか?
それは、親子という「身分」である。
親子の基準は明確でなければならない。一律でなければならない。子どもがこの世に産み落とされたその瞬間に、迷いようがなくはっきりと、その子の母が存在しなくてはならない。
ひとりで生きていけない子どもには、母という”よすが”が必要だ。(中略)
だから最高裁は、双子ちゃんには可哀そうだけれど、「子どもを産んだ人=母親」というルールの例外を認めなかった。双子ちゃんの涙と引き換えに、”誰の子でもない子”を減らそうと考えた。目の前のこの子たちを救えなくても、それが結果的には多くの子どもたちを守ることになると信じていた。

最高裁は確固とした「身分」を私たちに与えようとした。
だけど、時代は変わる。家族も結婚も点滅し、答えは曖昧になっている。著者の「家族」を見つける旅は、まだ続く。

LGBTQ +をはじめとする多様性を認めることがクールとされる現代の風潮に、著者は同調圧力を覚え、「ふつう」でなければ仲間はずれにされた中学時代と同じ息苦しさを感じていると、あとがきで漏らしている。

私はもう一度、朝井リョウの『正欲』を読み返したくなった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?