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母国語以下(不実な美女か貞淑な醜女か/米原万里)

ロシア語同時通訳者である著者による、通訳エッセイ。
クスっと笑ってしまう通訳ミスのエピソードがてんこもりで、すごく面白かった。

「情勢」と言うつもりで「女性」と言い、「空想」のつもりで「くそ」と言い、「顧問」のつもりで「肛門」と言い、「少女」のつもりで「処女」と言ったりすると、当事者にとっては悲劇、すなわち第三者にとっては悲劇となること間違いない。

下ネタの多さ、そして通訳者の勘違いによって生じるシチュエーションコメディは、さながらアンジャッシュのすれ違いコントのよう。

あと以前、映画の字幕翻訳者が「ダジャレや諺が難しい」と言っていたのを聞いたことがあったが、通訳は瞬時に代わりの言葉を探さなきゃいけないのか…とあらためて驚いた。
著者は、「そういうのを日本ではね、『他人のふんどしで相撲を取る』というんだ」という日本語を、とっさに「他人のパンツでレスリングする」と訳し、不潔感しか残らないのでは?と後で反省するエピソードが紹介されていた。

あと、言語学的に(?)なるほどな、と思ったのが以下。

・不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か

通訳にとって大事なのは、母国語(日本語)の話し言葉としての美しさと柔軟性である。特に、時間をたっぷりかけられる翻訳と違い、通訳は瞬時に言い換えなければならない。
「来年度の日本のGNP成長率は、4%前後になります」という発言に対して「Oh, it’s too optimistic!」という反応があった場合、英語の名通訳者の田中祥子氏は「それは、あまりにも楽観的すぎます」ではなく、「読みが甘すぎやしませんか」と訳したという。すごい。

本書のタイトル「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」は、日本語として響きがよく、相手が何を欲しているのか、何で怒っているのかということが正確に伝わる表現に言い換えること(意訳)を不実な美女、逆に、元の言語に忠実に訳す(その結果伝わりにくくなる)ことを貞淑な醜女に例えたものだ。
もちろんどちらが良いかはケースバイケースで、例えば数億円のお金が動く商談の場では意訳は適さない。

・外国語の能力≦母国語の能力

第二言語すなわち最初に身に着けた言語の次に身につける言語、多くの場合外国語は、第一言語よりも、決して決して上手くはならない。
単刀直入に申すならば、日本語が下手な人は、外国語を身につけられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない。
コトバを駆使する能力というのは、何語であれ、根本のところで同じなのだろう。

私の友人に、ポルトガル語通訳をしている東大卒の才女がいるのだけど、彼女も日本語の能力がものすごく高いこと思い出した。

英文学者の外山滋比古氏は、幼児から複数の言語教育をしてはいけないと警鐘を鳴らす。母国語という「個性的基本」を形成する前に外国語教育を徹底されると、文化的アイデンティティを見失い、不安定で不幸な自我意識に苛まれるからだ。
著者の周りにも、子供をインターナショナルスクールに入れ、家の言語を英語で統一するような家庭がいくつもあったが、彼らも子供が成人するころになって重大な過ちを犯したことに気づいていたという。
外国語教育は早ければ早いほどいい、というわけではないらしい。
抵抗を感じない程度に触れさせておいて、本格的に学び始めるのは8才以降、というのがどうやら良さそうである。

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