「努力」への鎮魂歌

「努力 未来 a beautiful star」

米津玄師の「kick back」で繰り返されるフレーズを、なんて皮肉なんだろうと思った。
主題歌となっている「チェンソーマン」では、努力した普通の人間が、なにかの気まぐれや単なる確率で次々と未来を奪われていく。
「努力は報われる」という信仰は、圧倒的な外部要因の前では、余りにも無力である。

冒頭のフレーズは、2002年発売のモーニング娘。の楽曲からの引用だ。当時のモー娘は、努力信仰最期の時代を謳っていたのではないだろうか。

「日本の未来は 世界が羨む」
なんて、分かっててつかれた大嘘だった。バブル崩壊から日本のプレゼンスは低下の一途を辿っており、人口減少などの課題に直面することは既に予測はついていたし、国民皆うっすら分かっていたはずだ。

逃れられない未来を否定するような曲に大衆は熱狂した。人は、自分に都合の良い物語を信じたくなるものだ。それが嘘かどうかは、重要では無いのかも知れない。2000年代は、そういう時代だったのではないか。

2023年現在放送中の朝ドラ「舞いあがれ!」の主人公たちは、その時代にティーンを過ごした、努力信仰の持ち主だ。

彼女と同世代の登場人物たちは事あるごとに、努力を信じようとする。
学校の試験や会社の営業、あるいは創作活動においても、努力してるから大丈夫、努力が実った、努力しなくちゃ、と繰り返す。
これが今作特有のものなのか、朝ドラに通底するものなのか、2000年代的なものなのかには議論の余地があるが、とにかく努力信仰を持っている。

彼女たちから上の世代と、2010年代にティーンを過ごした我々の世代とでは、努力への信仰に大きな差があるように思える。

日本は戦後から高度経済成長を経てバブルを迎えるまで、とてつもない努力をしていたのだとは思う。そのお陰で世界有数の経済大国となり、我々世代はその豊かさを享受している。
しかし、それは国全体で捉えた場合であって、個々人の努力という点では少し違うのではないか。

当時を生きた人たちは、猛烈な努力をして働いていた。そしてその報酬として給料は上がり続け生活は豊かになるというサイクルの中にいた。それは事実だろう。

だがそれは経済成長と人口拡大の真っ只中にある国で過ごしているから得られる成長曲線なのであって、個々人の努力とはそこまで相関がないのではないか。その大いなる外部要因の結果を、自分個人の努力のおかげだと内面化した方が、満足感は高いだろう。2000年代は、まだその名残りの時代だったように思える。

個人の努力と成果を得られるかどうかに相関はあるが、それは外部要因の影響と比べたら瑣末なものである。

私がこう思うようになったのは、前述のように2010年代にティーンを過ごしたからだろう。小中学生でリーマンショックや東北の震災を経験し、20代前半はコロナ禍の中にあった。

抑え直しておきたいが、私は努力を否定しているのではない。
自分の力の及ぶ範囲の変数を望んだ方に向かわせる為に、努力は必要不可欠だ。
ただ、それが望んだ成果を生むかどうかに関して言えば、外部要因の影響の方が大きい。そう思わされるには充分な世界だった。

「成功するまでやり続けるのだから、努力は必ず報われる。」そう言う人もいる。
だがそれはやり続けるだけの時間があった人だけだ。人生に無駄はないが、人生の時間に限りはある。

その時間をじわじわと奪っていくものや、突如として断ち切るような外部要因は数多ある。その受動性からは逃れられないのに、自らの能動性を信じ込ませようとする考えだから、努力信仰には違和感を抱かざるを得ない。

自分がこれから何かで成功しようと失敗しようと、それが自分の努力の成果だと思うことはないだろう。自分こそ、家庭環境や育った地域や学校の文化、時代性などの外部環境の影響のかたまりだ。だから、「努力は報われる」なんて能動性を過剰に礼賛する言葉を信じることはない。

努力が信じられていた時代のフレーズを、努力が報われない世界観であるチェンソーマンで分かってて引用した米津玄師は、「努力 未来 a beautiful star」の時代の死を示しているようにみえる。

そういう意味でこの曲は、「努力」への鎮魂歌なのではないか。

それは同時に、大いなる受動性の中にあっても、自らの能動性を模索していく努力は続けていかなければならないことも教えてくれる。

結局努力は必要なことを思えば、努力は報われると思い込んだ方が楽なのかも知れない。それをメタで見て外部環境を整えようとする私は、情熱が足らないのかも知れない。だが、そういう構図が見えてしまった以上は、そういう戦い方をするしかないのだ。それもまたひとつの「努力」である。

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