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道を聞く女(妻)、聞かない男(自分)

さてホームセンターなどで探し物をしているとしましょう。
たとえば「のぼり」を買いたい。
「のぼり」って、店先などでパタパタ旗めいている「大売り出し」「冷やし中華始めました」などが書かれた長方形の布を取り付ける逆L字型のポールですね。
台座付きで、伸縮できるやつがいいです。それを買いたい。
一般人がなぜ「のぼり」を買いたいのか、細かいことは置いておきましょう。
とにかく買いたい。

そんなとき、妻はすぐ店員に聞くのです。
「のぼり」はどこに売っていますかと。
一方ボクはすぐには聞きません。
まずは探します。いや探したい。
さてどこに売っているだろうか。いったい何売場だろうか。文房具ではあるまい。エクステリアか。工事関連か。どんな商品の横にあるだろうか。
いろいろ推理したいのです。

しかし妻はそんなボクにイライラします。
聞けば早いのにと思っているのです。
時間の無駄をしたくないのでしょう。
一方でボクは、聞いてしまったらつまらないじゃないか、と思うのです。

妻は人に聞こうとしないボクを、聞くのが恥ずかしいから聞かないと思っている節があります。
100%否定はしません。確かに聞くのは恥ずかしいし面倒くさい。それになんだか人を煩わせているという気持ちにもなる。
この店員さんは何かを急いで取りに行っている途中かもしれない。別のお客さんを待たせているのかもしれないってことを考えてしまうのです。
そんなことで気を揉むより探す方が気楽でいいのです。
そして探すのは楽しい。ワクワクする。

そう、ボクはクエストがしたいのです。
クエスト、つまり冒険の旅に出たいのです。
冒険の旅の末にお宝を見つけたい。ひとつなぎの大秘宝を見つけたい。失われた聖櫃を見つけたい。岩に刺さった勇者の剣を引き抜いてその剣で龍を退治したい。塔に囚われた長い髪のお姫様を助け出したい。そしてお姫様と結ばれたい。

しかし妻は業を煮やし、店員に聞いてしまうのです。
「のぼりはどこに売ってますか」と。
なんてことだ。長い髪のお姫様と結ばれないじゃないか。
いつもこんな感じです。
旅先で少し道に迷いそうになった時なども、妻はすぐに道を聞こうとします。
ボクは聞かない。探したい。どこかにヒントはないかと探索したい。
妻はイライラして誰かに聞き、ボクはモヤモヤしてしまいます。
多くの夫婦やカップルは同じような軋轢があるのではないでしょうか。
うちだけかな。

さてこのような時、よく「価値観の違い」で話を片付けようとすることが多いと感じています。
妻は時間に価値を見出している。
ボクは、探すことの楽しさに価値を置いている。
価値観の違いって便利な言葉です。使うと納得感が爆上がりします。

しかしボクは、そんな小難しいものだろうかと思っているのです。
もっと単純で根源的なことではないだろうか。
そう、単に気持ちいいか気持ち悪いかの違いじゃないだろうか。
つまり快不快の感度の違いだと思っています。

出ました。久しぶりです。油断したでしょう。
得意の快不快セオリーです。
「快不快への感度の違いが個性や後天的な能力の違いを生み出した」理論です。
これについて何度か記事にしました。
ただ不快を避け快に向かう筋道の違いが個性となる、
考えて答えを導き出すことに快感を感じる人はその積み重ねで考えることが得意になる(頭が良くなる)、
自分の習慣や好き嫌いを変えたければ快不快の感度を徐々に変えるのだ、
などなどについて書いてきました。

妻のように時間に価値を置いている人は、時間の無駄が不快なのです。
そして効率よく物事が進むと気持ちいいのです。
時間に価値を見出しているというより、テキパキ物事が進むと気持ちいい。
ボクのように何かを探し求めることに価値を置いている人は、その探し求める行為が気持ちいいのです。探し当てる快感が大きいのです。
そして時間がだらだらと過ぎていくことに不快さは感じられないのです。
むしろデカダンな快感があるのです。
デカダンなカイカン。
おおー。

さあ、もうここまで来たら言ってしまおう。
価値観も快不快感度の現れなのだと。
価値、大切にしたいこと、というような高尚なものではなく、ただ何に気持ちよく感じるかどうかなんだ。
快か不快か。世界はただそれだけでできているんだ。
価値観などと格好をつけるんじゃない。

さあ、言いたいことは言い切った。あとはオチをつけるだけだ。
しかし今回はオチが浮かばない。
会心のオチは気持ちいいのに、いつものように降りてこない。
オチがなくては気持ち悪い。
たしか笑いなしオチなしでは記事は終わらないと以前に書いた。
自分に課してしまっている。それを破るのは気持ち悪い。

しかし今日中に投稿しないと毎週投稿記録が途絶えてしまう。
せっかく70週まで伸ばしてきたのに、途絶えるのは気持ちが悪い。続いている方が気持ちがいい。

まだ午前中だ。まだまだ時間はある。
しかし午後になってまで書くのはしんどい。気持ち悪い。
いろいろ他にやりたいことがある。そっちのほうが気持ちいい。

タイトルの「道を聞く女(妻)、聞かない男(自分)」は、本文より先に思いついて、ベストセラーの「話を聞かない男、地図が読めない女」みたいで気に入っている。とても気持ちいい。
でもタイトルのようなジェンダー関連のことを書くつもりが、書いているうちに内容が全然違うことになってきて気持ち悪い。
しかしそのギャップが逆になんだか気持ちいい。

さきほど「デカダンなカイカン」と書いた。韻が踏まれた上に内容も相まって気持ちいい。

気持ち「良い」がいいのか、気持ち「いい」が良いのか、もう混乱して気持ち悪い。
いや、実はその揺らいだ感じがなんとも気持ちいい。

このように気持ち良さと気持ち悪さの天秤こそが「人の悩み」なのだ、価値観だけでなく悩みさえも快不快の相克なのだ、という深淵な哲学的真理に気付いてしまって、メチャメチャ気持ちいい。
しかも「悩みさえも快不快の相克」というフレーズは「カッコ」で囲いたくなるほどカッコよくて気持ちいい。
そして「悩み」という重い問題が出てきたのに、ほとんど掘らずにスルーしてしまうことも無性に気持ちいい。

RCサクセションの「キモちE」を聞くと、やっぱり気持ちいい。古いな。

そうさー、
おいらはー、
いちばんキモちE、
だーれよりもキモちE、
どーこまでもキモちE、
サイコー、サイコー!

作詞:忌野清志郎

歌って誤魔化すと気持ちいい。それではまた。

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