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何かと切腹したがるイタイ男がチューして忠する話

奔馬(豊穣の海・第二章) 三島由紀夫 1969

懲りずに畏れ多いことをまたやります。
ただ、ずっと足がすくんでいました。
右翼青年が政府転覆を狙って事件を起こし、自決する話です。
三島の死にざまを投影するような小説です。
そんな小説なのに、なんとボクは感じた違和感について書こうとしています。
大作家渾身の遺作シリーズにイチャモンをつけようとしているのです。
そんな大それたことをして、ボクの人生は大丈夫なのだろうか。

でもその前に「色」について処理しておきましょう
『春の雪(豊饒の海・第一章)』の感想記事で、この小説のアクセントカラーは白だと書きました。

第二章の『奔馬』の色については、読む前から分かっていました。
赤です。
なぜなら文庫本の装丁が赤でしたから。
ちなみに『春の雪』の装丁は白でした。
『奔馬』では案の定、赤があちこちに登場します。
特に、ここぞというところで使われています。
「赤心」「赤い雷管」「紅い桜落葉」「女の感情の夕映えの紅」などなど。
そして最後の一文「日輪は瞼の裏に赫奕と登った」の「赫奕」。
「かくえき」(もしくは「かくやく」)と読みます。
意味は、光り輝くさまです。
赤が二つの赫に、奕。
かくえき。
読めん。
さすが三島。広辞林(今の大辞林)を全部憶えただけある。

無意識的なのか意識的なのか、三島はそれら「赤」を表現する周囲に「白」を散りばめています。
もちろん、その「赫奕」の前にも白は散見されました。
特に主人公の勲とヒロイン槇子のキスシーンでは、まさしく「白い碁石を置くように」、「白山神社」「白いショール」「銀白色」「白粉」「白い顔」などなど、赤を際立たせるように白を使った後で、槇子の唇を「紅い桜落葉」と表現しました。
おそらく自決を表す血潮の「赤」と、死装束を思わせる「白」という組み合わせを意識してのことでしょう。
「紅白」という文字も多く現れました。

色についてはこのへんにしておきましょう。
さてボクの違和感についてです。
違和感はタイトルの「奔馬」です。
ボクの読んだ限りでは、そのキスシーンにだけ「奔馬」という言葉が登場します。
(ちなみに第一章『春の雪』でもキスシーンでタイトルが表現されました)
キスの直前、勲が槇子を強く抱きしめようとする様を「奔馬のように」としていました。
そして勲の短い人生と最後の時間を「奔馬のよう」と表現したかったのでしょう。

「奔馬」の意味は「勢いよく走る馬」です。
他に「奔」を使う字としては、「奔走」「狂奔」「出奔」などがあります。
どれもあまり爽やかさがなく若干ネガティブな印象があります。「資金繰りに奔走する」などです。
「奔」には「勢いよく走る」の他に、「逃げ出す」という意味があるからでしょうか。
「奔馬」の勢いよく走るさまには、思慮の足りなさを感じてしまいます。
ポジティブな語としては「奔放」がありますが、ただこれも思慮は足りていない印象です。
つまり主人公の勲は、ただ勢いよく浅い思慮のまま人生を駆け抜けていったということか。
ボクには違和感がありました。
もちろん現代の価値観では、勲は思慮の浅い“イタイ“奴です。
しかしあの時代の、ましてや三島の視座からそうなるのか。
三島が「奔馬」というタイトルを付けたことが、ボクにはしっくりできないのです。

タイトルは「雷管」もしくは「赤い雷管」の方が良かったのではないかと思いました。
雷管は小説の中程で登場します。
勲とその一味たちが雷管を作るシーンがあります。

雷管とは、簡単に言えば大きな爆弾を一気に爆発させるための小さい爆弾、起爆部品のことです。
爆弾は単に火を付けたら爆発するものではありません。爆薬の中に導火線を突っ込んだだけではダメなのです。
雷管が要るのです。
雷管が爆薬の中で小爆発して、それが爆薬を誘爆させているのです。

そんな雷管を作っていた彼ら自身が雷管になろうとしていました。
皆が自決する覚悟でした。
同時多発テロ事件を起こし、檄文をまき、雄々しく切腹し、彼らの小爆発が引き金となって、政府転覆へ導こうとしていました。
それはもちろん三島事件と呼応しています。
「奔馬」より「雷管」の方がより熾烈な覚悟があると思ったのです。

「雷管」あるいは「赤い雷管」。
しかし、タイトルとしては少し散文的かもしれません。
狙ってる感があるというか、説明的すぎるというか、重みがない感じです。
やはり「奔馬」が正解なのでしょうか。

そう言えば奔馬の意味を調べようとして、Google検索窓に「奔馬」と打ち込むと、「奔馬性結核」という言葉が下の候補に出てきたことを思い出しました。
これは病状が急激に進行する結核の一種らしいのです。
「奔馬性結核」
また疑問です。
なぜ結核の種類に「奔馬」を使うのでしょう。
どうやら英語の翻訳のようです。
つまり、galopping tuberculosis、ギャロッピング結核、です。
「ギャロップ」は「スキップ」みたいで、その語感からは楽しそうな響きがありますが、実際は馬が最も速く走る走法のことを言うそうです。
それにしても急性結核でも劇症性結核でもなく、奔馬性結核なのです。
結核だけに古典的な響きがあります。
そう、今では結核という病気は古典的でマイナーな病気ですが、三島が生きていた昭和中期では死亡者数が上位10位以内のポピュラーな病気でした。さらに昭和初期では1位でした。
結核には死のイメージがまだ色濃く残っていたと思われます。
そこへ「奔馬」が付いた「奔馬性結核」です。急激に進行する死の病気です。
もちろん三島はこの病名を知っていたでしょう。

つまり「奔馬」は死に向かって闇雲に駆け抜けていくイメージがあったと想像します。
ならば主人公の死にざまに重ねることができます。
この仮説で少し違和感は解消されました。
しかしまだモヤモヤします。

最大の違和感は、キスシーンで「奔馬」が使われたことにあります。
どちらかというと槇子に誘導された形で槇子を腕に抱きました。
そのとき急に「奔馬のように」強く抱いて、接吻に至りました。
しかも小説の流れでは、それまでの勲には槇子を強く欲した感情が薄かったように思います。
奔馬にしてはストロークが短すぎなのです。
そんな薄い背景に小説のタイトル「奔馬」を絡めて、勲の死にざまを投影したのです。
一方前作である『春の雪』の主人公清顕は、ヒロイン聡子を濃密に半ば変態的に求めました。
そう、我らが勲くんには恋へのむさぼりと変態さが足りない。
だから恋のシーンに「奔馬」は使いどころじゃなかったと思うのです。

『春の雪』の清顕くんは恋愛に変態的でした。
不倫大魔王でした。
一方で勲くんは何に変態的であったかというと、忠義に変態的でした。
それはもう、いつでもやんごとない方々へ命を差し出す覚悟がありました。
切腹大魔王でした。

恋愛と忠義。
発見しました。三島は書いています。後半弁護士の本多くんに言わせています、
「恋も忠も源は同じ」
うーん。
行動は似通うけど、源は同じなのでしょうか。
忠については忠したことがあまりないので想像力が及びにくいです。
チューはめっちゃしたことあるけど。
このあたりがモヤモヤさせているんだ。

このシリーズ『豊穣の海』はあと2章あります。
読めば答えがわかるのでしょうか。
うーわ。この記事、三千字を超えてしまいそうです。
実はこれでも半分くらいに縮めたのですが。
オチなく笑いなく終わるしかないか。
ち。三島め。イタイのはお前なのかもな。お前はあまりチューしたことないんじゃないかな。それではまた。

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