見出し画像

色川武大『狂人日記』

3月30日
色川武大『狂人日記』

 たぶん3回目の再読かな。10代の頃に図書館で借りて読んでよく分からず、大学卒業後に再読してやっぱり分からず、10年以上経って読み直して、ようやくしっかりと作品の世界を感じることができた。

 特に序盤、やけに客観的で冷静に自身の置かれている状況を綴る語り口調と、突然始まる幻覚の描写が目まぐるしく、ついていくのがなかなか大変。過去2回はそれが原因で取り残されてしまったのだろう。

 いま読み直してみても、主人公が無学であると自称している割に、病気の捉え方が論理的すぎるところが少し引っかかりはする。
 でも、それ以上にロバート・クーヴァー『ユニバーサル野球協会』のように、カードに書いた力士の名前とサイコロを使って、自分だけの相撲大会を開催したり、そこからどんどん発展して身の回りにいる人たちをカード化してフィクションの生活の想像に浸るあたりは、自分にも同じ病根を持っていることに思い当たるふしもあり、他人事ではなかった。

 とりわけ、次々に押し寄せる様々な幻覚や妄想が、自分だけに感知されているものだと自覚しながら、他の人たちも同じような幻覚を見ているのか、見ても口にしていないだけなのか、と病気と正常の境界に疑問を持つくだりは印象に残る。
 これは他人と比べて自分を正常だと正当化するのではなく、自分が病気であることがアイデンティティの一部になっていて、しかもそのアイデンティティにさえ自信が持てないことを示している。きっとその自我の脆さこそ、病気の一因ではあるのだろう。

 後半の圭子との出会いや暮らしを描いたパートはややドラマチックすぎた気もするけど、第三者と関わることで自覚していなかった病気の深部に直面し、自暴自棄に陥っていく主人公の姿は無様で物悲しく、それだけに胸を打たれるものがある。
 第三者と関わることを避けている自分は、病気や狂気から目を背けながらまともなフリをして生きているだけなのかもしれない。

それで、これは病気だろうか。以上のことを一言も口外しなければ、病気だと立証できない。そこのところがずっと以前からわからないが、他の人にもこういうことがあるのかどうか。あっても黙っているのか。死んでもいわぬと深くかくして、平気そうに生きているものなのか。

色川武大『狂人日記』

自分は眼をあけて夜空を眺めていた。赤や青の灯の列が張りついている。あれは、実際には無いのだ、と思う。いつか病気が治ったとき、空には何もないだろう。病気が治らなくたって、ある日、赤や青でなく、黄色の灯の輪になっているかもしれない。

色川武大『狂人日記』

しかし、誰かを殺したような気がする。いつも発作のあとはそうだが、なにか大働きをしたような気分で、須臾にそうしたことをしとげたのか、脳裏をかすめただけなのか、たとえ幻像の世界にしろ、確としたことが何もつかめない。自分ひとりの世界は、確とさせる必要がないから、実体をそのまま大掴みしたような気分で居られる。

色川武大『狂人日記』

 死んでやろうと思う。ずいぶんよそよそしい言葉で、人に告げても信じるまい。自分にも、まだ嘘くさくきこえる。
 死んでやろうじゃない。死ぬよりほかに道はなしということだ。それで、自然死がよろしい。今日から、喰わぬ。

色川武大『狂人日記』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?