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日記:20230131〜内田百閒『ノラや』〜

 内田百閒『新編 ノラや』(福武文庫)を読んだ。
 先日、『冥途』を再読して、やっぱり自分には百閒の小説作品よりも随筆の方が合っているような気がして、本棚から『ノラや』を引っ張り出し百閒作品を続けて再読。

 前半に猫が登場する小説が数篇収録され、『彼ハ猫デアル』からはノラ(とクルツ)にまつわる随筆が収められている。
 小説では『白猫』の末尾の文章が、まさしく夢の中のような錯綜とした奇妙な文章で、得体の知れない臨場感がある。

 でもやっぱりその後の随筆が好きだなあ。初めて読んだ時よりも、百閒のノラへの過剰なほどの愛がどんな顛末を迎えるかを知っている分、再読した時の方がよけいに胸が苦しくなった。

 自分はまだ小さい頃に家で犬を飼っていたことがあるくらいで、特別ペットへの思い入れなどはないのだけど、それでも愛する存在との別れ、それも死別などのわかりやすい別れではなく、どこかで生きているはずだけどもう会うことができない、どこで何をしているかもわからない、という寂しさや切なさ、やるせなさは痛いくらい伝わってくる。たぶん自分がアイドルオタクになったこととも無関係ではない。

 このどうしようもない寂寥感は、『のび太の宇宙開拓史』のエンディングや、山本周五郎『その木戸を通って』に通じるものがある。ノラがいなくなった日のことを描いた随筆のタイトルが『木賊を抜けて』なのも、『その木戸を通って』に似ているじゃないですか。

 もうひとつ読んでいて膝を打ったのは下記の一節。

一体私は猫好きと云うのではないだろう。そう云う仲間に入れて貰う資格はなさそうである。ただ、いなくなったノラ、病死したクル、この二匹が、いてもいなくても、可愛くて堪らないと云うだけの事である。

内田百閒「カーテル・クルツ補遺」(『新編 ノラや』所収)

 対象を広げて一般化せず、ただ自分の目の前の「個」に対して純粋に注がれる「可愛くて堪らない」という思い。これは自分が何かを好きになった時に感じるものと同じだし、自分の好きなジャンルやカテゴリを語る際にいつも感じる違和感でもある。
 説明が面倒臭いしかえって誤解されそうだから、ついさっきも書いたように「アイドルオタク」とか「アイドルファン」と自称してしまうのだけど、自分はアイドルそのものが好きなわけではなく、大好きで仕方ない、かわいくて堪らないアイドルがいる、というだけなんだよな。この感覚は忘れずに持ち続けたい。



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