親孝行とは
「2024年8月14日に南海トラフはおきます」という未来人のツイートをまんまと信じ、戦々恐々としていた愚か者は僕だけじゃないだろう。
どこに行っても水は品切れ。「ペットボトルに入れた水道水を冷蔵庫に入れておけば10日くらいは飲料水として使える」との情報を得て、5本ほど空きペットボトルに水道水をストックしていた。もしかしたら、今生の別れとなるかもと思い、8月10日頃、母に電話をかけその旨を伝えたら、気が小さい息子の行動に笑っていた。
結局8月14日に南海トラフは起きず、厳重警戒も解除されたが、各地で地震は相次いでいて、「まあいつきてもおかしくないくらいの気分で準備しておくのは大事かも」とは思っている。
そんな風に地震で胸をヤキモキさせていたら、またしても風邪を引いた。休日の朝、喉の痛みと若干の倦怠感を感じた時点で、すぐさま耳鼻科に駆け込む。何事も同じ経験を繰り返すと、それに対する対処法が素早くなってくるものだ。
初日は37度台の微熱だったため、「今回は軽く済むかな」と油断していたら、2日目の昼前に僕の体温は39.1度を観測する。連日の猛暑にも引けを取らない。朦朧とする意識の中、職場に欠勤の連絡をし、さして遠くない距離の実家の母にヘルプの電話をかける。
南海トラフで生き別れる予定だった息子からの助けに快く応じてくれる母親という存在はつくづくありがたい。「とりあえず水分と食料だけ買ってきてほしい」とのお願いをしたが、お節介な母がそれだけで帰るはずがない。寝込んでいる僕の横で、溜まった洗濯物の一掃、好き放題散らかった僕の部屋の掃除を始める母。僕は自分で片付けこそできないものの、人に部屋を勝手に片付けられることにも別に抵抗を感じない人間なので、「なんでこんなに汚い…」とかなんとかブツクサ言っている母の独り言を意識半分で聞いていた。
「男なんて大概マザコンである」と聞いたことがあるが、自分に当てはめてつくづくそうだなあと思う。特にこうして体調不良の時は、自分が少し子ども返りするのを感じる。僕は、思春期の中高生の頃でも、平気で母と食事や買い物に出かけたりしていたタイプだが、さすがに周りの同級生にそれを公言するのはダサいと思い控えていた。むしろ、大学生になり一人暮らしをはじめてからの方が、物理的な意味で親離れをしたことにより、精神的にも親への依存度が下がった気がする。
社会人になり一度は実家に戻ったものの、また1人暮らしを始めたのも、もちろん実利的な面もあるが、「いつまでも母に頼りきりの生活は恥ずかしい」という気持ちがあった。今でも実家に帰るとかなーり自分に甘い母。遠距離の移動の際、僕が車を出すと、ガソリン代と言って実際の経費の倍くらいの額を出してくれる。お金はもらえるもんは貰いたいのでありがたいのだけど、いつもどこか気恥ずかしい。
だけど最近になって、母にこうやって世話を焼いてもらうのも一種の親孝行なのでは、と思うようになった。もちろん、体調不良の際にこうして駆けつけてくれることは実際めちゃくちゃ助かっているのだけど、「いいのにそこまでしなくて」「そのくらい自分でできるから」も、最近は言わなくなった。きっと、母も僕の世話を焼きたいのだ。
僕が働いている職場には母と同世代のパートのおばちゃんがたくさんいて、彼女らとする世間話が母の話す話題と酷似していることに笑ってしまう。同じような家族構成の同世代の女性という共通点で経験してきた人生に近しい部分があるから、似たようなことを思うのかな、とか思う。年齢や性別で人を括るな、との話だが、母も職場の20代の男の子が、僕みたいに見えるらしい。
いつまでもあると思うな親と金というが、なくなるかもしれないから頼りにしないのではなく、ありがたいなぁと思いながら程よく使わせていただく、という意味なのかもと思った昨日今日だった。