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【音楽エッセイ】眠れない時に聴く音楽— Max Richter "Sleep"(2015)—

みなさんは、どうしても眠れない夜にどんな音楽を聴くだろうか。クラシック?好きなシンガーソングライターのバラード?それか、むしろ開き直って、デスコアに合わせてヘドバンしながら疲れて眠る作戦とか...。

実際に音楽を聴いて寝れるかどうかは別として、どれだけ頑張っても眠れない夜はなんだか不安になるし寂しいので、何か音楽を聴きたくなる人は結構、多いんじゃないかと思う。

音楽の歴史を振り返ってみると、音楽家はたびたび、快適に睡眠に入るための曲を作ってきた。
例えば、ヨハン・セバスティアン・バッハの有名な『ゴルトベルク変奏曲』は、不眠症を訴えていたカイザーリンク伯爵のために書かれたという逸話が残されている。もちろん、当時はSpotifyもApple Musicも無いので、眠れなくなったカイザーリンク伯爵は実際に演奏を頼まなくてはいけなかったが、その演奏を担当していたのが、曲名の由来となっているチェンバロ奏者のヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルクだったという訳である。

↓ゴルトベルクの演奏を聴くことは出来ないが、伝説的なグレン・グールドの演奏を是非聴いてみてほしい。

マックス・リヒターの"Sleep"

バッハが生きた時代から300年ほど経った現代にも、快適に眠るための音楽を作曲して、更には会場にベッドを用意して、音楽を聴きながら眠るためのコンサートまで開いてしまった作曲家がいる。それが、マックス・リヒターだ。

マックス・リヒターは、ドイツ生まれのイギリス人で、ポスト・クラシカルと呼ばれるジャンルの代表的な作曲家である。ポスト・クラシカルとは、いわば現代版のクラシック音楽のようなもので、ピアノやストリングスなど伝統的な楽器だけでなくエレクトロ・ミュージックなどを取り入れることもある。また、楽曲はどちらかというと非常に展開のシンプルなものも多く、ミニマル・ミュージックの延長線上にあると言ってもいいかもしれない。

その、マックス・リヒターが「睡眠」をテーマに作った、ポスト・クラシカルもしくは、アンビエント音楽とも言えるアルバムが、2015年にリリースされた"Sleep"だ。
マックス・リヒター自身は、この作品のコンセプトについて、「生活は日々慌ただしい、あらゆる物事が休まず進む、企業には好都合かもしれないが、個人にもそうだろうか?だから無言の抗議の意味を込めこの作品を作った」と『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』というドキュメンタリーの中で語っている。

"Sleep"は、脳科学者であるデイヴィッド・イーグルマンと、眠る為に適した音響を科学的にリサーチしながら作った作品で、総再生時間は約8時間半という長大さだ。しかし、交響曲のような複雑な展開があるわけではなく、この楽曲を構成するのは'Dream'や'Cumlonimbus'など抽象的なタイトルをつけられた幾つかのモチーフと、それらを異なるアレンジで演奏したヴァリエーションである。一つのモチーフを繰り返し演奏するのはある意味ミニマル・ミュージック的でもあるし、それが少しずつ形を変えていくのは、ある意味変奏曲的とも言えるかもしれない。

"Sleep"は、睡眠用に作られた8時間半のオリジナルバージョンだけでなく、鑑賞用に作られた"From Sleep"、モグワイなど他のミュージシャンとコラボした"Sleep(Remixes)"など様々なバリエーションがある。

その中でも"From Sleep"に収録された、Dream3(in the midst of my life)を聴いてみたい。曲中で繰り返される、ピアノの和音を基調とするシンプルでゆったりしたモチーフは、非常に美しいけど同時に聴き流すこともできる音楽で、アンビエントの創始者であるブライアン・イーノの美学を受け継いでいるとも言えるだろう。

また、マックス・リヒターは2018年に"Sleep"を引っ提げたコンサートを行っている。しかし、それは、通常のコンサートではなく、実際に観客がベッドに横になって眠りながら音楽を聴くというものだった。

ドキュメンタリー映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』には、そのコンサートの様子が収められている。観客の中には、公演前にベッド同士の距離が近く、不安に感じている人もいたが、実際の公演の様子は非常に静かで美しく、親密な雰囲気を感じた。

マックス・リヒターは、初めて会う他人と一緒に寝るというのはお互いへの信頼がないと出来ないことだが、その他人の中で眠りに落ちてしまう時に生まれる信頼関係こそが、コミュニケーションや人との繋がりを感じることに通ずると言う。

お互いに言葉を交わさなくても、共に同じ音楽を聴いて、共に眠ることが一種のコミュニケーションに繋がるというアイデアは興味深く魅力的に感じた。

眠れない夜を過ごすのは、大抵不安で寂しいことだが、このコンサートでなら、そんな夜を体験してみたいかもしれない。

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