他者として遊女の「日記」を読むということ 「日記」を書く遊女たち(横山百合子)
※ このnoteは「REKIHAKU 特集:日記が開く歴史のトビラ」(2021年6月刊行)に掲載されたコラムの転載です。
きっかけは遊女の放火事件の資料
東北大学附属図書館の著名なコレクション狩野亨吉文庫のなかに、一八四九(嘉永二)年の新吉原遊廓で起きた遊女の放火事件の資料があることに気付いたのは、数年前のことだった。『梅本記』と題された、新吉原京町一丁目の遊女屋梅本屋佐吉の抱え遊女たちの放火事件の裁判調書である。『梅本記』には、遊女の自筆の「日記」やその「日記写」も含まれている。しかし、近世文書としては実に風変わりで、解釈は難しかった。そもそも、一つの見世の何人もの遊女が「日記」を書くということがあったのだろうか。また、本当に遊女の「日記」だったとしても、なぜ遊女たちはなぜ「日記」を書いたのだろう。興味深い史料だと思いながら、なかなか手がつかないまま時が過ぎた。
エゴ・ドキュメントとは?
そうこうしている間に、西洋史研究におけるエゴ・ドキュメント論を勉強する機会を得た。エゴ・ドキュメントとは、「一人称」で書かれた資料―日記や書簡などで、歴史における「主体」への着目から生まれてきた史料論とされる(長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』)。エゴ・ドキュメントに着目するさまざまな作品のなかでも、中世イタリア史家大黒俊二氏の、ルネサンス期のイタリア商人たちがどのような過程を経てドキュメントを生み出していくのかを明らかにし、民衆のリテラシー誕生の過程に迫る研究には、強い印象を受けた(大黒俊二『声と文字』)。遊女の「日記」という一人称の文書を読み解くヒントを得たような気がしたのである。
もちろん、日本史研究でも、日記を史料として用いることはごく日常的に行われてきた。たとえば、明治維新史研究の基本史料である『維新史料稿本』四二〇〇冊余り(東京大学史料編纂所でデータベース化されている)は、その相当部分を日記や書簡が占めている。複雑な過程をたどる維新史の詳細年表であると同時に、事実の確認や関係人物の特定、さらには引用された日記や書状から当該人物の性格やさまざまな政治構想まで読み取ることができるもので、多くの維新史研究者が頼りにしてきた史料群である。しかし、遊女の「日記」を、『維新史料稿本』に所収された日記や書簡のように客観的・合理的に読み解いていくのは難しい。では、出来上がったドキュメントを外側から見て必要な情報をピックアップしていくといった史料の読み方ではなく、ドキュメント生成の起点にさかのぼり、その人物の語りの流路を追いつつ、その道筋の示す意味を探るというエゴ・ドキュメントの方法を援用して読んでみたらどうだろうか。こう考えて、棚上げにしていた遊女たちの「日記」を、どんな文字、どんな文体や書式を使い、何を書いているのか、遊女たちは何が書きたかったのかに注目しながら読んでみることにした。ここでは、その読み取りの一端を紹介してみたい。
遊女桜木の「日記」
「日記」を残しているのは、新吉原遊廓京町一丁目の小見世遊女屋梅本屋の三人の抱え遊女である。梅本屋佐吉の見世では、過酷な遊女の処遇―とくに貧しい食事や仕舞金と呼ばれる不当に重い経済的負担、そして苛烈な暴力が日常的に行われていた。一八四九(嘉永二)年八月五日、耐えかねた一六名の遊女たちは、かねての手筈通り、楼主(妓楼の主人)佐吉の昼寝を見計らって表二階の格子上の天井を持ち上げ火を挿し、道路から見える煙で大騒ぎとなっている間に、名主の役宅に駆け込んで自首した。
『梅本記』は、この事件をめぐって作られた三冊の裁判調書(壱、弐は所在不明)のうちの一冊で、五人の遊女の調書(申し口)や「日記」、その写しなどが綴じ込まれている。「日記」は、梅本屋抱え遊女のうち、筆頭の遊女である豊平、若い桜木、小雛の三人のものであった。他の遊女が「日記」を書いていたかどうかはわからないが、放火した遊女一六人のうち少なくとも三人が「日記」を書いていることからみると、遊女の「日記」はそれほど珍しくなかったとみてよい。ここでは、三つの「日記」(あるいはその写し)のうち、『おぼへ長(帳)』と題された、桜木の自筆の「日記」の一節を見てみよう。
上の「日記」は、一八四六(弘化三)年一二月三日、衣服をつけたまま短時間遊興するごろ寝(ちょんの間遊び)の客だったため、桜木が、楼主の佐吉に「そんな客は帰してしまえ」と𠮟られ、帰りたがらない客との間で板挟みになって裸で緊縛され折檻をうけたことを記している。佐吉の日常的な暴力の証拠として調書(『梅本記』)に収録されたとみられるが、右からもわかるように、桜木の「日記」は、数字等を除けばほぼすべてがひらがなで書かれている。また、ひらがなは一つの音にいくつもの変体仮名があり、近世の場合、いろいろな崩し字を用いるのが通例であるが、桜木の「日記」では、「わ」は「王」の崩し、「と」は「登」の崩しと、一音=一文字しか使われていない。話し言葉を直接に書きついで事態の推移を綴っていく点も特徴的である。これを反映して、「それから~」、「~し、~し」といった具合に、時間の推移を示す語や動詞の連用形や推移を追う語を多用するが、順接、逆接、理由など文と文の関係を明示する語はほとんど使われない。加えて、文章のまとまりの意識もないため、段落の意識がみられず、その結果、「一、」と起筆する一つ書(箇条書き)も使われていない。
おそらく、桜木は、わずかな漢数字とひらがな四七文字という最低限の文字を覚え、文章の区切りや段落、一つ書といった文章の構造をまったく意識することなく、時間の経過にそって、話し言葉で事態の推移を述べる「日記」を書いていたのである。もし、会話体を用いずに事態の推移を書こうと思えば、「~そうらえども」とか「~ゆえ」といった接続語、主語が複数含まれる複文などが必要になるが、桜木にはそのような文法を習得する機会はなかったのだろう。客への定形化した短い手紙を書くために最低限のひらがなを覚え、日常の話し言葉をそのまま記すことで「言葉が発せられたという事実」を示し、事態の推移を表現したのが、桜木の「日記」なのである。
しかし、桜木自身は、『おぼへ長』を話し言葉で綴ったとは考えていなかっただろう。右の短い引用には、「いろ〳〵しかられまして」とか「しばっておきましたよ」といった丁寧な文末表現が目につく。書き言葉は、日常の話し言葉より丁寧に表現するものだという通念があるとすれば、桜木は精一杯の丁寧な表現として「~ました」という表現を用い、書き言葉としてこの「日記」を書いたのであろう。言い換えれば、『おぼへ長』は、文字を覚えた遊女たちが、声による話し言葉の世界から書き言葉の世界に足を踏み入れていく最初の瞬間を表現したエゴ・ドキュメントなのであり、リテラシーの起点を示す史料なのである。
遊女豊平の「日記写」
しかし、桜木はなぜこのような「日記」を書いたのだろうか。この点についてヒントを与えてくれるのは、遊女豊平の「日記写」である。
豊平は、一三歳で梅本屋佐吉の見世に売られ、二八歳で放火事件に参加した遊女であるが、梅本屋の遊女のなかでも遊女たちを統率する最上位の遊女の一人であった。ところが、楼主佐吉は一計をめぐらし、玉芝という若い遊女に豊平を陥れる偽りの申告をさせ、豊平を激しく折檻し年季の延長を謀ったのである。玉芝の虚言のために折檻を受けた豊平は、その苛酷な状況を次のように記している。
遊女たちは、この策略に反発し、後日、玉芝を問い詰め真相を白状させた。豊平は、自分が絶望に追い込まれた事情がわかった時、「日記」を次のように結んでいる。
町役人が「日記」を写す際にかなを漢字に直してしまったことを除けば、豊平の「日記」も前述の桜木のそれによく似ている。しかも、豊平の「日記写」には、桜木の「日記」以上に、怒りや苦悩を吐瀉するために書かれたとしか思えない強烈な感情があふれている。豊平は、誰かが読むために書いたのではなく、生命の危機に追い込まれた経験を、書くことで吐き出し、心理的な抑圧を緩め、精神の崩壊をかろうじて食い止めたともいえよう。そのような事情は、前述の桜木の場合も基本的には同様である。また、桜木や豊平が自らの「日記」を読み返すことがあったとすれば、それは、もう一人の自分が「日記」のなかの自己の経験をみつめ、この過刻な環境のなかでいかにして生きていくかを問うことにつながったであろう。そして、放火による告発はその答えだったのではないだろうか。
遊女たちの「日記」を読むことは、遊女たち自身が遊廓における抑圧の構造を理解し、放火という生命を賭けた行為に至る過程をたどる作業であった。そして、その「日記」は、他者としてそれを読む私たちの前に、近世遊廓の抑圧の構造がいかなる特徴を持ち、そのような場で人はいかにして主体としての自己を形作っていくのかを如実に物語る史料として、立ち現れてくるのである。
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