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プチトマト 小さい男とズボラな女

 夫は定年退職後ハローワークに通い、しばらくしてデイケア施設の運転手になった。毎朝何軒かを回りおじいさんやおばあさんを車にのせ、施設まで連れてゆく。午後になると同じおじいさんやおばあさんをそれぞれの家まで送り届ける。もともと運転の好きな人間であるためだろう、運転手の仕事を夫は楽しく続けている。
「望月さんの運転はていねいで全然怖くないの」などとにやにや笑うおばあさんがいるんだ。夫は照れるように白髪頭に手をやってそういった。

 ふたりの娘はそれぞれ独立し、上の娘は看護婦になった。妻は娘が看護婦になったことにたいそう満足していた。勉強が出来なくて、かといって運動が出来るわけでもなく歌がうまいでもなく、とろんとした目で学校と家を往復するだけ、友だちの話もボーイフレンドの話も出てこない、よくわからない娘が「人さまの役にたつ仕事」に就いたのだ。
 下の娘は高校を卒業したあと、近所のスーパーマーケットで働きはじめた。大学には行きたくない、勉強したいことがない。私はすぐにでも働いてお金を貯めたい。きっぱりした娘である。妻は一度スーパーマーケットに娘の仕事ぶりをのぞきに行ったことがある。娘は緑のエプロンをつけ、黒いズボンをはき、えんじ色のベレー帽をかぶっていた。娘のレジには長蛇の列が出来ていた。大根の長いのを半分に切ってくれ、杖をついた老人が娘にそう頼んだ、娘はレジの下の方からナイフとまな板を取り出し、大根を威勢よくぱんとふたつに切った。切ったというより割った。

 ふたりの娘が独立し、夫も再就職した。妻の日常はがらりと空っぽになった。短大を出て事務の仕事を3年ほど続け、夫に出会った。夫は結婚後は「家にいて欲しい」といった。妻も「夫がそういうなら」といささか安易に専業主婦となった。しばらくたつと「専業主婦」は社会の重荷である、というような風潮を見聞きするようになった。妻は風潮を気にする方ではなかったが、いつの間にか自分の中に「うしろめたさ」があることを知った。かといって「働きに出たい」とか「仕事を探そう」とは思わなかった。ふたりの娘を育て上げる中でママ友、PTA、近所付き合い、いろいろと苦労があった。仕事を持つ母親の中には「望月さんは専業主婦だからヒマでしょ、うちの子ちょっと預かってもらえないかしら」などと連絡をよこす人も何人かいた。別に構わない、との思いの一方でなんだかもやもやした。もやもやはずっと続き、どうやらそれは「仕事を持っている母親全体に見下されている」という感覚であるようだった。

 夫は朝、自分で弁当を作るようになった。自発的にそう言い出したのである。「ずっと作ってもらってたからね、定年後は料理をしようと決めていたんだ」夫の佐助はそういい、弁当の材料も自分で買い揃えるようになった。
スーパーのチラシに安いプチトマトを見つけると、必ずそれを買ってくる。弁当にはプチトマト。佐助の思い込みを妻は横目で見ながら鼻で笑った。
ある朝、プチトマトがなかった。
「ここにあったプチトマトどうした?」夫がたずねると
「昨日の夜に出したでしょ」と妻が答えた。
「どうして俺の弁当用のプチトマトを勝手に使った?」夫は不機嫌を隠さない。妻はこの質問を無視した。小さい男だな、そう思った。

 ひとりでポツンとテレビを見る。もともと政治にも経済にも興味はない。かといってバラエティを視ていても何が面白いのかさっぱりわからない。
「なにか習い事でもしたらどう?」
 電話の向こうで長女がそういった。看護婦の長女がそういうなら、そうした方がいいのかもしれない。妻は自分がやってみたいことをいくつか考えた、パソコンにそれを入力してみた。

 ギター教室は電車でふたつの駅から歩いて5分の場所にある。ギターに触るのは初めてだ。自分のギターを購入するまでは教室のギターを借りた。音階から覚えた、講師はギターの弦の取り替え方は教えてくれない。「ギターの弦が切れました、どうやって取り替えたらいいですか?」を聞き出せない。なぜならギターの講師はいつもどことなく機嫌が悪そうだし、決して感じのよいタイプではないからだ。3ケ月ほどたつと、しだいに指がなめらかに動くようになった。右の指と左の指がまったく異なる動きをする、しかもほぼ無意識に指を必要な場所における、あるいは弦をはじけるようになる。「デイジー」という曲を仕上げた時、講師は「すごいですね。上達が早い」といってはじめて褒めてくれた。笑い顔を見せてくれた。講師の笑い顔は、実はこの男がまだ若干30歳の若者であることを妻に思い出させた。週に一度ふたりきりの濃厚な時間を六畳ほどの洋間で過ごしていることを気づかせた。よく見るとイケメンとまではいかないが、それなりに「綺麗」な顔をしている。あるとき講師は「アルハンブラの思い出」を弾くことを妻に勧めた。アルハンブラは難しい。アルペジオがメロディを作る。妻は一生懸命この曲を練習した。「徹くんに褒めてもらいたい」というのがその理由であった。徹くんは講師の名である。講師は谷口徹といった。妻は心の中で講師を徹くんと呼んでいた。徹くんと外で会いたいが、妻の唯一の希望となっていた。

 徹くんは高校を出た後、ひとりでスペインに渡りギターの修行を積んだ。
 徹くんは最初は怖かったけど、だんだん私に優しくしてくれるようになった。
 徹くんはときどきプライベートの話をしてくれるようになった。
 徹くんはヘアスタイルに気を遣っている。
 徹くんはお酒が好きらしい。

 妻は「アルハンブラの思い出」の練習に没頭し、あまり家事をしなくなった。夜になるとせつない。「徹くんは今何をしているのかしら?どこかで彼女と会っているのかしら?徹くんには何人ものガールフレンドがいるだろう。いまどきの子たちはすぐにホテルに行っちゃうのかしら?」せつないから酒を飲む。といっても家にはビールしか置いていない。最初の2本をごくごくと飲むと身体がぽかぽかした。3本目を開け、一口飲んだところでギターが弾きたくなった。「アルハンブラの思い出」が弾けるようになったら勇気を出して徹くんを食事に誘ってみよう。一心にアルペジオを弾いた。
「京子さん」
夫は妻を京子さんと呼ぶ。望月京子というのが妻の名である。
「ビール3本目一口しか飲んでない。もったいないよ」
妻はギターを弾く手を緩め、夫の声の方を見た。夫は仁王立ちになり右手にビールの缶を持ち、左手を腰にあてふんぞり返っている。さっきまで女子ゴルフの番組を見てにやにやしていたくせに。
「ビールがもったいない」は京子の神経を逆撫でにした。私は「アルハンブラの思い出」スペインギターの代表曲を弾いているのよ、あなたは女子ゴルファーの太ももをいやらしい目つきで見ながら一日に5本のビールを空けているじゃない、徹くんはアーティストなの、芸術家なの、お腹も出てないし若くて親切で笑うととても素敵なの・・・。夫に言いたいことは他にもいくらでもあった。が出てきたのは、たったの一言だ。
「だいたいあなたは小さいのよ」
「小さいとは何だ、失敬な」
「だって絶対プチトマトじゃん」
「は?」
「だから弁当にプチトマトないと怒るじゃん。ビール缶放っておくと怒るじゃん、すぐ怒るじゃん。怒る内容が小さいの」
「お前はズボラじゃないか」
「ビール缶はいつも飲みっぱなし、ギターの練習しかしてない。最近は洗濯物も俺が畳んでいる。芸術家ぶって何様のつもりだ」

 ふたりはしばらく口をきかなくなった。口はきかないが夜は同じ部屋で寝る。夫のイビキは轟音に近い。妻は「徹くん」と「アルハンブラの思い出」が流れるスペイン風レストランでふたりでお酒を飲むシーンを想像しながら最近替えるのを忘れていた枕カバーに熱く火照る頬を押し付けるのだった。

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