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遠い記憶 牛舎あるいは長いスカート

 昭和の英語教育は悲惨であった。文法の教師は完全なあまりにも完全なカタカナ英語で授業を進めた。かれはディスイズアペンも言えなかった。ディのかわりにヂといった。私の英語はヂスイズアペンから始まったのだ。背が高く肩がこんもりと膨らんだ教師だった。水泳部の顧問をしていたと思う。
 中高といろんな教師に出会った。特に覚えているのがヂスイズイズアペンと、生徒たちに「バヤイ」と呼ばれていた猫背の社会科の教師、私のスカートの長さが気になってならなかった風紀の教師だ。

 「バヤイ」はこの場合の、場合、が言えなかった。彼は場合を「バヤイ」といい、バヤイ以外の言葉もほぼ聞き取れなかった。「バヤイ」の声はいつも小さく生徒たちは彼の話を聞く気がまったくない様子だった。田舎の中学校はそれなりに荒れていた。目立つ暴力はなかったものの、勢いづいた男子生徒たちは机に脚を投げ出し「バヤイ」を指さしあからさまに声をたてて笑った。当時の私は自分が醜いことに夢中だった。醜さを背負って生き抜くために真面目に勉強をした。勉強をする、トップの成績を維持することに幼いアイディンティティを求めていた。体育と図工以外のすべての科目でトップであることを私は私に要求し、その厳めしい要求に私はいそいそと答え、毎晩遅くまで予習復習を欠かさなかった。

 ヂスイズアペンは生徒に文法の問題を順に振った。その日も私の予習に問題はないはずだった。だが、彼は私の番が来ると、突如としてテキストにない質問をしてきた。当時の私には応用力が備わっていなかった。あらかじめ予定されている設問には完璧に答えられるが、変化球でこられると歯が立たない。ヂスイズアペンの質問に答えられなかった私はその場に立ちすくみ、全身をガタガタ震わせた。「うろたえるな」ヂスイズアペンは私に固い声でそう言い、次の生徒にはテキストに記載のある質問を与えていた。

 風紀の教師は干し柿みたいに尖がった顎を持っていた。名前は忘れた。高校時代、私のスカート丈は校則よりはるかに長かった。今では死語だが、「不良」という言葉が世間を騒がせていた時代だ。長いスカートは「不良」の象徴であるとされ、だが私は「不良」とはほど遠い生活を送っていた。友人はひとり、あるいはふたりしかいなかったし、常に何かに怯えていた。恋をしていたがその恋は決して愉快なものではなかった。風紀の教師は田舎道をとぼとぼと登校してくる私を校門前で待ち、スカートの長さを糾弾した。スカートが長ければ不良である。このアホらしい公式を私は心底嗤っていた。なにがあってもこの風紀の教師にだけは屈服しないと決めた。叱責されてもその叱責を無視した。睨まれたら顔をそむけた。

 志望校に合格し上京することが決まったその日、私は最後の登校をした。相変わらずスカートは長くカバンも適度に薄かった。校門で風紀の教師が待っていた。「おまえのその態度では東京ではやっていけない」かれは私にそう言った。
 あたりには牛舎の匂いが漂っていた。風紀の教師の顔はほの白く、その目は針のように細かった。忘れはしない。
 

 

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