見出し画像

横浜人形の家で出会った女

もし私たちがみな人形であれば、誰もが他者と戦うこともないだろう。もし私たちが言葉を持たなければ、私たちは水や陽の光、濃い緑の匂いを知ることもないだろう。

横浜。山下公園をふらふらするうち、ふと人形の家に寄る気になった。展示スペースには世界中の様々な国で生まれた人形たちがいっせいに集っている。ほとんどの人形は愛想よく微笑んでいるけれど、中には笑うことなくこちらを、ガラスケースの外から人形を眺める私を見つめてくる人形もいる。
私と人形は互いにしばらく見つめあい、すると私の視線は次第に力を失ってしまうのだ。なぜなら人形は決してこちらを見ることをやめようとはしないから。

ひとはなぜ”ひとがた”をつくるのか?この興味深いテーマを掲げた特別展示が催されていた。ある、ひとつの、太った女を模した人形、肌と乳首に鉄の鎧をまとったその姿は私の官能をそそった。その太った女は娼婦であり、娼婦の象徴であり、娼婦そのものであり、どこまでも娼婦なのだ。多くの芸術家たちは謎めいた意味をはらんだ人形を制作する。謎めいた意味とは何か、それを私は、人間に見られる存在としての人形と、何かを貪欲に永久にむさぼるように見続ける存在としての人間のあいだに生まれる緊張感を伴う関係性の中に見出す。
私はどうやら鉄の鎧をまとった娼婦が何かを語りだすというばかげた空想に囚われてしまったようだ。太った娼婦は語る。独創的楽観的刹那的寓話的な
すてきなお話を、鋭くも明らかにエロティックな視線をこちらに向けながら彼女は永久に語るのだ。

山下公園にて。海の藍の色と停泊した船と。
ほのかに海が香る。
ひとびとは草に横たわり、何かを食べ、くつろいだ様子でなにかを話し、可愛らしく着飾った飼い犬といっしょに写真を撮り、あるいはただそぞろに歩いている。
美しい花がざわめくように咲き並び、
漂う花の香りは柔らかい香水のように私を招き入れる。
薔薇の茂みの中にオレンジ色の花びらを見つけた。
オレンジ色の生の塊が唐突に私の前に現れたのだ。

オレンジ色の薔薇が忘れられず、
私は夜になるのを待ちきれず、その色に触発されて小さな物語をひとつ書き、このnoteにアップした。
「処女でマリアで底抜けに明るい娼婦でいてくれ」
物語を書き終えてからつけたタイトルを案外私は気にいっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?