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一日の終わりに:鳥取砂丘とタヌキの皮算用

  鳥取砂丘
 ユーチューブのスペイン語授業を聴いてたら、アルゼンチン出身の女スペイン語教師がスペイン語会話能力を上達させたいならば、鏡に向かって大きな声で発音してみましょうという。やってみよう。姿見の前に立ち、「昨夜私はルイスからメッセージを受け取ったが、まだ彼に返事を書いていない」とか「私はスペイン語がまったくわからなくて、スペイン人の友人がひとりもいませんでした」など、スペイン語ドリルに載っていたスペイン語の文章を大きな声で読んでみた。調子にのって、「ホセは日本の「エルピス」というドラマを見て主人公の長澤まさみさんのことがたいへん気に入りました」とか「サラは鳥取砂丘でミゲルと恋をしました」など鏡の前で言ってみたが、すぐ例文を考えるのに飽きてしまった。  
 ふと思いつき、洗面所の三面鏡を開いた。右の鏡と左の鏡で無限に連なる鏡の道を作ってみた。鏡の道の奥からちっぽけな黒い悪魔が駆けてくるのを待った。鏡から悪魔が飛び出てきたらそのあとどうしよう。ピンセットでつまむ、ピクルスの空き瓶の中に閉じ込める、家じゅうを掃除させる、肩を揉ませる、納豆の一パックあるいは二パックをかかせる、ネギを刻ませる、ゴミ捨て場まで普通ごみとプラスティックごみを運ばせる、どれがいいだろう。ちっぽけな黒い悪魔のイメージは星新一さんの短編からもらった。星新一さんの短編には挿絵がある。あの挿絵のどこかに、たしか黒い悪魔の姿があったはずだ。

 ダラズ
 老いた。眼も耳も髪も肌もよくない。足の小指の根っこにある魚の目は固くなるばかりだ。眠る前にいくつかの薬を飲む。数時間の眠りを約束してくれる薬、整形外科医に処方してもらった腰の痛みを和らげる薬、腰の痛みに効く薬は胃に負担をかけるので、胃の薬も。血液検査で亜鉛が足りていないとわかったので処方された亜鉛の薬。ぜんぶでいくつの錠剤を飲んでいるのか、数えてみようと毎晩思う。が、オレンジ色や白色、あるいはピンク色の錠剤を一粒一粒シートから取り出すごとに飲んでしまうので、自分が毎晩いくつの薬を飲んでいるのか、わたしは結局きちんとは理解していない。
 むかしからズボラである。ズボラと聞くと、即座にダラズと言いたくなる。わたしは信州で生まれた。三つで信州を離れた。ダラズは信州の方言だとずっと思っていたが、どうやら思い違いであるらしい。ダラズは山陰地方の言葉で、愚か者を意味するのだとネットの記事にあった。

 帽子
 暑い。マスクと色付きレンズのふざけたメガネと黒い帽子で外出した。通りすがりのパン屋のウィンドウで自分の姿をチラと見た。おばあさんが若作りしている。げんなりした。還暦なのだから還暦らしい服を買おう、還暦にふさわしい夏のワンピースを買おう。ショッピングモールで還暦以上の女性のために作られたお洋服が並ぶお店を見つけた。還暦以上の女性のために作られたお洋服は見事なまでに老女向けのデザイン、色彩の服ばかりであった。まだこの領域に足を踏み入れてはならない。お店のすみにこれなら着用できるかもしれない、わりとシンプルなデザインのスカートがあった。帽子を脱いで試着した。ぶかぶか。サイズが合わない。帽子をかぶってお店を出た。昼下がりの街は人で溢れている。

 タヌキの皮算用
 百貨店の八階にあるレストランフロアで女ともだちとお昼を食べた。味噌汁、鶏照焼き、五穀ご飯、お漬物、ひじき煮。隣の席で若い男の子と女の子が互いの手を握り、見つめあっている。わたしはお茶をすすり、ちらちらふたりの様子を伺った。女の子の白い手首には銀色の腕時計。男の子の横顔は、とにかく明るい安村氏に少し似ていた。
 下りのエスカレータの脇に占いのコーナーが設けられていた。三人の占い師の名前が掲示されている。白い布で覆われた占いスペースに占い師は一人しかいなかった。銀色と紫色の二色で染め分けたショートカットの下に細い銀縁の眼鏡をかけたおそらくは七十代の女性占い師が若い娘さんの話を聞いている。相談は全体運、恋愛運、金銭運など基本的なコースに分かれていて、ひとつの占いにつき三千円かかるらしい。
 むかし自由が丘で占ってもらったことがある。あのときはたしかひとつの占いで六千円を払うようにとのことだった。六千円払ってでも占ってもらいたいことがあったので、占い屋さんの暖簾をくぐった。テーブルの向こうに男性占い師が座っている。おそらく三十代半ばと見た。男性占い師はわたしの手のひらを見るなり、「大丈夫ですか?男性関係」、と言った。大丈夫ではなかった。何も言っていないのにいきなり「大丈夫ですか?男性関係」と聞かれたことでわたしはこの男性占い師の占いはよく当たるに違いないと思ってしまった。けれど、「大丈夫ですか?男性関係」以外の占いの内容は、すべてありていの、誰にでもあてはまるような話ばかりだった。「大丈夫ですか?男性関係」という一言もありていの、女なら誰にでも覚えのある言葉に過ぎないとあとになって気づいた。六千円で多くを学ばせてもらった。未来のことなど誰にもわからぬ。捕らぬタヌキの皮算用、来年の事を言えば鬼が笑うなど、日本にはよいことわざがある。

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